広く浅い学びって実は重要なのでは?

 歴史や哲学などの、いわゆるリベラルアーツと呼ばれるような学問領域を学んでいると、人間とはどういった生き物なのかというものが少しずつ見えてきます。いや、見えてくるといっても僕はまだ書籍でほんの僅かな範囲をかじっているだけなので、なんとなくそんな気がするというレベルです。まぁそもそも「リベラルアーツを学んでいる」などと豪語してしまうのは、やや傲慢な気もしますが。
 とにかく、長い年月を経て蓄積してきた膨大な知識体系、人類の叡智ともいうべき領域の片鱗にちょっと触れただけでも、そのすごさは感覚的に理解はできます。

 リベラルアーツとは何かということはいろいろな議論があると思います。日本語だと「教養」と訳されるケースが多いように感じますが、「教養」だとどうも広範すぎてよくわからないし、かといって適切な訳語も他には見当たりません。
 ことばの議論は一旦おいておくにしても、リベラルアーツを学ぶことの意義などもぼんやりとしているし、昨今はそういった学びが軽視されがちです。そんな感じで、リベラルアーツにとっては風当たりの強い状況ですが、僕個人としてそれらを学ぶ意義を考えてみました。それはすなわち、「この世界の成り立ちを学び、今ここにいる自分が何者かを理解しようとする学問」ではないかなと。

 歴史は、ホモサピエンスという生き物が歩んできた足跡をたどる学問です。哲学は、「人間とは何か?」「世界とは何か?」という壮大な問いに挑み続けて得た知恵です。宗教は、そのような哲学的な疑問に対して、思想という形で生み出された一つの解答です。自然科学は世界を解釈するための、新しい物差しです。芸術や文学は、それらを彩る人間の営みそのものです。

 人間は有史以来、僕たちと同じように思考し、苦悩し、少しずつ前に進んできました。その過程を知り、今自分がここにいることの意味を改めて問いかける役割を果たすのが、リベラルアーツではないかなと思います。

 僕がリベラルアーツがなぜ重要だと思うかというと、自分を含む多くの人が、自身のことを知らなさすぎるからです。自分のことをよく知ろうと思うと、今の世界がどのように成り立っているのかを理解しなければなりません。なぜなら人間は世界との関係で自分を定義するからです。

 人類は自分自身のことをよく理解しないまま重要な意思決定を進め、その結果今も同じような失敗を繰り返し続けています。そして、そろそろこういうことを辞めにしないと、いろいろなことが取り返しのつかない状況になりつつもあります。

 高度に分業化が進み、その結果、個人が一生の間に学ぶ学問領域も先鋭化しつつある今、逆に広く浅い学びが重要なのではないかと僕は思います。リベラルアーツがもっと重視されるような社会に、なんとか舵を切れないものかと考える日々です。

 それではまた!

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