人生で無駄なことは一つもないのか

 こんにちは!

 よく「人生に無駄なことなんて一つもない」と言ったりしますが、本当かなぁ?と思ったりします。過去を振り返れば、一見無駄だと思ったことも、多くが後で役立っているということはありますが、全部が全部、そうなのでしょうか?端的にいえば、人生において無駄なことなんて一つもないという言説は、果たして本当なんでしょうか?

 例えば僕は、数年前に基本情報技術者試験という試験を受験しました。ただその時はしっかり勉強をせず、結果は不合格になってしまったんですよね。この場合、結果だけ見れば、投下した時間は無駄になったように感じます。だけど今、最新のテクノロジーや情報技術の分野を自分で勉強してい際に、当時インプットした知識がうっすら残っていて、役に立っているんです。これは過去に学習したことが結果には繋がらなかったけど、時間を経て新しい学習をする際に役立っている、という事例です。

 このケースは割と効果が現れるまでのタイムラグが短かったので、自分でも比較的実感しやすかったという面があります。一方で人間は、過去の出来事の大部分を忘れていきます。なので、大昔にやったことが時を経て役に立ったという実感は、そもそもそれを認識すること自体が難しいのではないか?という疑問があるんですよね。

 人生において結果的に役立った事例というのは、誰しも経験したことがあるでしょう。一方で、無駄なまま終わることも腐るほどあるはずですが、僕たちはその大部分を忘れているわけです。要は成功事例は強く記憶に残るため、それだけが経験則として抽出され、あたかも全てが役に立っているように見えるという現象が起こっているのではないでしょうか。失敗や無駄を含めた試行錯誤をする過程で、ほんのわずかな成功事例が未来を直接変える要因になっていて、それが一般化された結果、人生に無駄なことがないという肯定的な評価を生んでいるのかもしれません。

 さて、この文脈では成功するプロセスの中には大量の失敗事例が生まれているという前提が存在します。しかし、それらの失敗は成功体験と直接的な因果関係があるわけではありません。すなわち無駄な行動と評価されるものたちです。過去の人生で経験した、一見無駄に見える出来事が、将来伏線のように回収される場合もありますが、基本的には無意味な出来事として記憶の彼方に忘却されていくのみなのです。

 ただ、そういったあらゆる行為を、成功事例を生み出すための礎として解釈してしまえば、この世に無駄なことはないと説明することもできます。要は人間が認識不可能なレベルで、複雑に因果関係が絡み合っているんですね。無駄と思われる出来事もバタフライエフェクトのように因果に組み込まれ、認識不可能な領域で影響を及ぼしていると考える。しかし、それはもはや世界をどう解釈するかの話になってきます。

 今日はなんだか分かりにくいことを書いてしまいましたが、「人生において無駄なことなんて一つもない」という主張は、ある意味そのような世界観のなかで生きるということになります。
 つまり究極的には、自分の人生の意味づけを全て自分で行うことが可能なのかもしれません。

 だったら、「自分の人生に無駄なことなんてなかった」と、肯定的に捉えながら生きていった方が、いくらか幸せに近付くんじゃないかなぁと思ったりもしました。

 それではまた!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?