ハリス-幕末の大先輩-

1856年9月4日 木曜日(安政3年8月6日)
 興奮と蚊のため、ひじょうに僅かしか眠れなかった。蚊はたいへん大きい。午前七時に、水兵たちが旗棹をたてに上陸した。荒い仕事。はかどらぬ作業。円材が折れる。幸い誰にも怪我はない。とうとう艦から加勢をうける。旗棹が立った。水兵たちがそれを廻って輪形をつくる。そしてこの日の午後二時半に、この帝国におけるこれまでの「最初の領事旗」を私は掲揚する。

 読み始めて、ふふっと笑ってしまった。歴史上の人物でも、私と同じように異国の蚊にナーバスになっていたらしい――
 
 昨年末、静岡に行ってきた。久しぶりの一人旅である。
 冒頭の文章は伊豆半島東岸、下田の玉泉寺にあるハリス記念館所蔵の「ハリスの日記」。3日分が日本語訳されパネル展示されていた。
 タウンゼント・ハリスは初代駐日アメリカ総領事だ。幕末に来日したアメリカ人といえばペリーが有名だが、ハリスも日本史の教科書に太字で記載されている。
 ペリーによって江戸幕府の鎖国が解かれ、日米和親条約が結ばれたが、そこには通商の規定がなかった。当初は和親条約締結に満足していたアメリカ国民であったが、やがて通商条約の締結を求め始める。
 そのような世論から、ハリスは日米修好通商条約の締結を目指し、1856年から2年間、母国から遠く離れた日本の下田、玉泉寺に滞在することになる。展示されている日記はその初期に書かれたものだ。

 私は熱海から伊豆急行線の鈍行に乗って1時間半ほど南へ下り、下田駅から海沿いの道を東へ30分ほど歩いて、柿崎地区にたどり着いた。海岸からひとつ奥まった道路沿いには旅館や民宿が点在している。長閑な港町だ。
 玉泉寺は港から山手の方へ少し入ったところにあった。山門の前ではスポーツウェアを着た男性が箒とちりとりを手に熱心に掃除している。私と同世代に見えるが、お寺の人だろうか。
 お参りを済ませて、辺りを見渡してみると落ち葉一つない美しい境内であることに気づく。
 記念館は本堂向かって右手奥にあった。時刻は朝8時半を回ったところで、私がこの日最初の来館者だった。
 館内は2つのフロアに分かれており、ハリスのことはもちろん、下田や黒船にまつわる品々が紹介されていた。
 「ハリスの日記」もその展示物の一部。彼は玉泉寺や柿崎の集落を初めて訪れた際の印象を、次のように日記に書き残した。

1856年8月22日 金曜日(安政3年7月22日)
 …下田の向こう側の柿崎の村を訪れた。この土地の寺院、玉泉寺がアメリカ人の休息所に当てられていた。部屋は広く、たいへん綺れいで、清潔であるから、二、三週間は先ずもって気持ちよくここに滞留出来よう。この寺院のそばにアメリカ人の墓地がある。そこには四つの清楚な墓があって、垣が綺れいに巡らされている。……
 柿崎は小さくて、貧寒な漁村であるが、住民の身なりはさっぱりしていて、態度も丁寧である。世界のあらゆる国で貧乏に何時も付き物になっている不潔さというものが、すこしも見られない……

 ドミニカ共和国のサトウキビ畑の集落が脳裏に浮かぶ。
 みんな貧しいしバラックみたいな家に住んでるけど、底抜けに明るい人たちやなぁと、住環境や家計の状況を観察していたことが思い出される。
 170年前の日本を描いた日記を読んでいるのに、カリブの光景が眼前に広がる。なんだか可笑しくなってくる。
 日本という異国――任国――の様子をつぶさに観察しているハリスの視線に数年前の自分が重なるのだ。"途上国"を見つめる彼の眼差しに協力隊イズムみたいなものを感じてしまう。
 なんだかハリスが、協力隊の大先輩のように思えてくる。

 ――冒頭の日記は、協力隊イズムの最たる言葉で締められていた。

厳粛な反省―変化の前兆―疑いもなく新しい時代がはじまる。敢えて問う―日本の真の幸福になるだろうか?
 サン・ジャシント号は五時に旗を一寸傾けて、私に挨拶しながら出港した。