食堂の「algarabía」から始まる世界史の話

 ドミニカ共和国はスペイン語圏の国なので、当たり前だが、街を歩けば、そこかしこにスペイン語の書かれた看板や貼り紙が溢れている。
 例えば、行きつけの食堂には以下のような文言の書かれた貼り紙がある。

Prohibido
Hacer Conversaciones con
algarabía o Bulla.
Sin distinción de Personas
Atentamente la Administración.

 ザックリ翻訳するなら「ここで騒ぐな」となるだろう。
 店員も客もフレンドリーな店だが、騒がしいと思ったことがないのは、この貼り紙の効果だろうか。
 さて、こういった貼り紙を見た際、気になったスペイン語は(きっちり覚えているかは別にして)まめに調べるようにしている。
 ここで私の興味を引いたのは「algarabía(アルガラビーア)」という単語。西和辞典を紐解けば、次のように書いてある。

1騒ぎ声;喧騒(けんそう).
2〘話〙(言葉・文字など)全く意味の分からないもの,ちんぷんかんぷん.
3アラビア語.
 ◆レコンキスタ Reconquista 時代(711-1492)にキリスト教徒がアラビア語につけた名称  

 初めてこの語義を読んだ際、世界史好きの私の目の前に、アラブ人がイベリア半島を侵略する中世の光景が、まるで映画の一場面のように鮮明に浮かんだのだ――  

 何やあいつら!なんかわけ分からんこと言うて暴れてんぞ!
 急に攻め込まれたキリスト教徒たちは、さぞ怖い思いをしたことだろう。
 711年のことである。アフリカ北部から地中海を渡ってきたアラブ人は、当時イベリア半島を支配していたキリスト教徒の帝国を侵略した。
 当初アラブ勢力は、現在のフランス国境にそびえるピレネー山脈まで覇権を広げ、この支配はおよそ300年に渡って続いたが、11世紀前半から頻発した内乱に乗じて、キリスト教勢力が盛り返すことになる。
 アラブ勢力はアルハンブラ宮殿で名高いグラナダを都とし、最後まで抵抗を続けたが、1492年、いよいよ陥落。キリスト教徒たちはイベリア半島を完全に回復することに成功した。
 二十歳の時、初めてグラナダを訪れた際には(観光客用に再現しただけかもしれないが)路地裏に残る水タバコ屋などの少し怪しげなアラビアンな雰囲気に胸を躍らせたものだ。
 歴史は繋がっている――  

 この1492年は、世界史上もう一つ大きな出来事があった。
 コロンブスによる北アメリカ到達である。同時に、中南米にスペイン語がもたらされることにもなる。
 国内では異教徒を制圧し、その上で対外的にも打って出る。当時のスペインの勢いは計り知れない。
 さて、現在のバハマ(フロリダ半島の東側の島国)に到達したコロンブス一行は、そこを拠点にカリブ海へ繰り出していく。その航海の過程で「発見」されたのが、イスパニョーラ島。何を隠そう現在のドミニカ共和国がある島である。
 現在の首都サント・ドミンゴは、コロンブスの弟であるバルトロメによって建設され、その一部はドミニカ共和国唯一の世界遺産、コロニアル建築の歴史地区となっている。
 コロンブスの子、ディエゴ・コロンの重厚な邸宅やスペイン本国かと見紛うような壮麗な大聖堂が、当時の繁栄を今に伝えている。  

 スペインの繁栄は、同時に侵略の歴史でもある。
 当時、島にはタイノ族という先住民がいた。彼らはスペイン人の侵略行為に抵抗したが、製鉄技術すら持たず、アラブ人にも打ち勝った圧倒的な軍事力を前に為す術もなかった。また、元来島にはなかった疫病で死に追いやられ、ほぼ殲滅させられることとなった。
 到達当初、先住民を奴隷として使おうと企図していたスペイン人は、開拓の労働力をアフリカ大陸に求めることになる。
 アフリカ中南部から幾人もの黒人奴隷を貨物のように船に乗せ、大西洋を何度も横断し、イスパニョーラ島をはじめアメリカ大陸に運んできたのだ。
 歴史地区の博物館では、タイノ族の暮らしの痕跡や黒人奴隷が残した楽器などに、スペイン語のキャプションが付いている。なんだか皮肉だなと思う。  

 ――時は2020年。今日も一人の日本人は、スペイン人とアラブ人の交わりから生まれたスペイン語「algarabía」を見ながら、アト・マジョールで飯を食う。
 世界史の大きな流れの中にいることを意識した時、自分の存在がひどくちっぽけな存在に思えてしまう。
 しかし、私だって海を越えてドミニカ共和国にやってきたのだ。この国に小さな歴史を紡ぎだせる存在でもあるのだ。