【追記あり】任地と私―一時帰国を前に―

【追記】
 本エッセイはドミニカ共和国時間3月17日時点で公開したものです。
 17日のドミニカ共和国大統領声明による「15日間の国境封鎖」の令を受け、翌18日には現地JICA事務所より「国境封鎖解除後の帰国を検討」との連絡がありました。
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 スーパーの入り口脇に人だかりができている。
 群衆が徐々に散っていくと、壁にアルコール消毒用のポンプが取り付けられていた。横には、手洗いや咳エチケットの啓発ポスターが張ってある。
 客たちはプシュ、プシュと手指を消毒してから店に入っていく。傍らでは若い男性店員が、消毒せずに入ろうとしていく人に、アルコールの使用を呼び掛けている。
 平日としては、かなりの客足である。
 アト・マジョールに来てから10ヶ月。しょっちゅう世話になってきたスーパーだが、今日が一番盛況かもしれない。
 売り場の通路では大勢の客とショッピングカートがひしめき合っている。カートの中は生鮮食品や缶詰でどれも一杯だ。
 青果品の陳列棚は売り切れが目立ち、菓子売り場のガジェータ(クラッカーやクッキー類)の棚もガランとしてきている。
 客も店員も、いつもの穏やかな雰囲気とはちょっと違う。どこかピリピリしている。
 みんな、備えているのだ。
 得体の知れない伝染病に、今後断たれるかもしれない供給網に。
 買い溜めの是非はともかく、家族を守るために今それぞれができることをしているのだ。
 なのに――

 「全世界に派遣されている隊員の早期一旦帰国を進める」(※1)
 昨日から協力隊界隈には、某国の隊員がJICAから受け取ったメールの文面が出回り始めていた。
 たしかに途上国の脆弱な医療現場、国際線の減便や停止、各国から聞こえてくる外出禁止、国境封鎖、空港封鎖の令など、隊員を取り巻く情勢を考慮すれば、あり得ない話ではないのだが、私はどこか他人事だった。自分の身にはそんな災難は降りかからないだろうと思っていた。
 しかし一夜明け、今日の昼過ぎにはドミニカ共和国のJICA事務所から「荷物をまとめ、首都退避、一時帰国の準備を」との連絡が来た。

 ――みんなこれから大変やのに、俺だけ帰るんか……
 今帰ってしまえば、私がこの街で、聞くに堪えない拙いスペイン語で紡いできた、大切な繋がりが断たれてしまうのではないかという不安が頭をもたげる。
 日本語の挨拶を覚え始めたバイクタクシーの運転手、毎朝私に敬礼して挨拶してくれるコメディ俳優みたいな銀行の警備員さん、帰宅途中に挨拶するおじいさんやおばあさん、「ハポネス(日本人)!」と声をかけてくる子どもたち、私を「タハ」と呼ぶ床屋のおじさん、毎日通うの食堂の店員とそのお客さんたち……見る人が見れば取るに足らない希薄な人間関係かもしれない。
 でも私は、みんなの笑顔を思い浮かべることができる。
 私は彼らから、忘れ去られないだろうか。
 寂しくてたまらない。
 今はまだ、この街に戻ってくる日はおろか、街を去る日の自分すら、上手く想像できずにいる。

※1 JICA本部の方針であり、実際には各国事務所による現地情勢を踏まえた判断になるようです。