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本当にいいモノをつくること 暮らしに寄り添う1本に込められた世界

ものづくりのまち、燕三条地域には工場が集まって、たくさんのつくり手たちが生まれ活躍しています。そんな動きに目をこらし、丁寧に集め、つなぎ合わせる。まちを新しく編集する視点で日本有数の産地に訪れた。

SANJOPUBLISHING連載「掌に、産業を」

日常には至るところでモノがあふれている。インターネットが普及してからは一層加速し、ありとあらゆるモノが情報としてパッケージ化され、届けられているのだ。ただ昔から変わらないことだってある。

誰が、どのように、どんな思いで作っているのか、モノのつくり手がみえる安心感。原点ともいえる。

燕三条地域に目を向けてみよう。

このまちでは、2010年代から工場での生産現場を一般公開し職人たちの熱気とともにものづくりの匂い、文化を届けようとオープンファクトリーが開催されてきた。

見て、触れて、感じること。ものづくりと関わりたいならリアルの大切さを知ってほしい。リアルで感じた感覚はその人の感性になるものだからね。

自社でつくられた包丁を眺めながらそう語るのは「庖丁工房タダフサ」(以後、タダフサ)代表の曽根忠幸さん。

株式会社タダフサの3代目である曽根忠幸さん

コロナ禍前は国内外から年間8千人近くの方たちがタダフサの工場に訪れた。

※現在、タダフサでの工場見学は感染症拡大の収まりを考慮しつつ再開する。見学にあたっては事前予約制で大人有料(18歳以下無料)で案内を行う。

たとえば、学生たちが修学旅行でこの地域に来て、工場を回ったりしてくれると、地元に住むひとたちも触発されてか、三条のいいところを再認識していくみたいな。(地域とものづくりの関係性は)当たり前となってきたと思う。

昨今、首都圏でも人を呼び込むためにオープンファクトリーが行われるなど各地域での広がりを見せる中、市全体で世界にものづくりを押し進める地域はそう多くはない。

「鍛冶屋である俺たちの視点は常に世界に。だから、俺たちは地元だけ見るのではなく、世界中に地場産業を伝えていかないといけない」と言葉をこぼす曽根さん。これまでの道のりは平坦なものではなかっただろう。

包丁技術の基礎をつくった漁業用刃物

株式会社タダフサとは創業1948年、曽根さんの祖父寅三郎さんが設立した企業である。寅三郎さんはもともと、曲尺づくりで会得した鍛冶技術をもとに独学であらゆる刃物を手がけてきた。問屋からの受注が続く中で、しだいに大きな生産比率を占める漁業用刃物が現在タダフサで提供する包丁の基盤をつくった。

こちらで展示しているのが漁業用の刃物。タダフサの歴史を知ってもらいたくて、当時の製品をアーカイブとして残しています。

うちの(包丁の)技術って、漁業用のマギリ(間切)や出刃包丁づくりで培われたもの。なぜなら、一隻で何百丁の注文、年間で3万丁近くの受注をいただくほどだった。マグロ漁船だって昔は1年近く航海しているわけで、行きは漁で必要な包丁を積みこみ、帰りは獲った魚に変わっていたと聞きます。

現在も定番品としてつくっているものは数点ありますが、と一呼吸置く曽根さん。漁業の変化によって漁業用刃物を製造する機会が減り、代わりに薄利多売の波が刻々と迫っていたのだ。

本当にいいモノなのに、価格決定権がない

タダフサは創業以来、「本当にいいモノ」を提供するために手仕事にこだわっている

タダフサに漂っていた危機感を曽根さんはこう話します。

(明治大)卒業が迫っていた1999年頃って、就職氷河期の真っ最中。就職が決まらなくてさ、行きたい会社にも行けなくて……どうしようと。

その頃、親父(2代目曽根忠一郎)たちと家族旅行をすることになって、「就職が決まらないし、家業を継ぎに帰ろうと思う」と相談したら「今は無理。(タダフサの)状況が良くないから東京で修行してこい」と即答で言われて笑。

今では笑い話にしているけどさ、危機感は確かにあったと思うよ。

当時のタダフサは漁業用刃物から家庭用包丁にシフトし始めたばかり。地元の問屋やホームセンターの取引が始まって販路拡大中。しかし、バブル崩壊してからは薄利多売の流れが小売業に直撃し、モノをつくるが顧客に売れない。負のスパイラルが起きていたのだ。

地元に帰ってきた20年前(2000年代)は、バブル崩壊後から続く悪循環がずっと続いていた。

会社としては受注体制だから受け身の状況が続いて、注文された(薄利多売の)商品をつくることで精一杯。製造の販路拡大をいくら続けたとしても、毎月毎月の利幅が見込めない。ホームセンターにたいしては僕らに価格決定権がないしね。その光景を歯痒く横目で眺めるしかなかった。

他社との価格競争に巻き込まれて自社で新たに開発する体力もない、つくっても儲からない、若い子たちを雇えない。状況を打破したいと思いながらも決め手がなかったんです。

本当のいいモノであっても、展示棚に飾られた1商品だけではつくり手の思いまでは見えない。加えて、つかい手にとっても日常と密接にかかわる道具が消耗品で終わってしまうのが本当に幸せにつながるのか。曽根さんは糸口を探して続けてきた。

大きな転機となったのが2011年。当時、三条市市長の国定勇人さんが中川政七さん(以下:中川さん)に三条市でのモノづくりに対する新たな策として
コンサルティングを依頼。そのとき、曽根さんは自ら手をあげて、中川さんとタダフサのリブランディングを一緒に取り組んでいくのであった。

鍛冶屋は世界を見渡してもみても“絶滅危惧種”

東日本大震災が発生した2011年、とくに暮らしにおいて大きな価値観の変化を抱いた人たちもいるだろう。安心安全な食のために、食卓にまつわるプロダクトもつくり手の顔が見えるものがいいーー

つかい手のこうしたニーズに応えつつ、タダフサと中川さんが目指した新しい包丁。それはつかい手に使用用途を提案する包丁の在り方。「基本の3本(三徳包丁、ペティナイフ、パン切り包丁)」と料理の腕前によって選べる4種類からなる「次の1本」。

自社の意識改革から始まったリブランディングと庖丁工房タダフサでの商品構成。本当に良いものはそのままに、ものづくりの産地と職人たちの匂いが透けてみえるモノを目指した。

また口頭で伝えることに限界を感じていたから、オープンファクトリーとして製造過程を見てもらい、本物の職人たちの息遣いを感じてもらいながら、それぞれのお客さまにあう包丁を提案することでお互いの納得感が生まれてきたよね。

レストランシェフとか、これまでとは違う層にもタダフサの名前が一人歩きしていってね。商品開発が終えたのが2012年1月、年度の終わりには新規の小売店さんを含めて全国200店とお付き合いが始まるほどでした。

商品開発を終えた翌年2013年からは初開催となる「燕三条 工場(こうば)の祭典」初代委員長として準備や調整に怒涛の日々を過ごされた曽根さん。「鍛冶屋のプレイヤーとしてめちゃくちゃ動いて、地域でのものづくりは着実に見直されてきた」とも言います。

海外企業のバイヤーも工場の祭典をきっかけに燕三条地域に訪れてくれるようになってさ。彼らって世界中を転々としているから世界での鍛冶屋と職人の厳しい現状をよく知っている。産業として残っているのが日本しかないことも。

世界を見渡しても鍛冶職人が10,000人もいなくて、うち8,000人は日本と言われるんだよね。実際に、イギリス在住の鍛冶職人がうちの工房を訪れたけど、「うちには産業がないから、刃物製造に関わる機械もない。うちの工房に来て見てほしい」と懇願されるほど。

今、産地がない鍛冶職人たちはYouTubeとかで独学で学んでいてたくましいけど、三条のような伝統も伝承もない。鍛冶屋にとって産地がある、存続していることが恵まれている状況と僕らは感謝しないとね。

鍛冶産業はフランスやドイツ、そしてロンドンにもこれまであったものの、現在も存続しているところは日本だけ。「俺らって絶滅危惧種だよね」、日本に限らずに世界中の鍛冶屋にとって共通した思い。メイドインサンジョウがあり続けることは、日本に住む私たち以上に世界中で期待と熱望されていることなのだ。

森がダメになっては川もダメになる

コロナ禍にもかかわらず、タダフサはこれまでに培った信頼関係をもと世界各地からの注文が後を絶えないそう。ヨーロッパ圏をはじめカナダや南アフリカ、イスラエルなどからも注文があり、1年待ちの顧客もいるほどだ。

その背景を曽根さんに伺うと単なる拡大路線ではなく、たとえクライアントであっても10年20年後も関係性を築ける人をいかに育てていくのかにシフトしているからだという。付き合う人を選ぶ、それは適正価格とタダフサの価値を認めあえる間柄でないと自国産業に近い将来、影響を与えてしまう怖さがあるからと補足する。

かつて、ドイツのとある企業がヨーロッパ圏の市場競争力をつけるために職人たちの人件費を削って他国の労働者を安く雇い、製造させたモノを市場で高く売っていたことがあった。

結果としてどうなったか。他国がものづくりの技術を流用し独自開発を進めて、市場優位性を高めていった。一方、ドイツでは人件費を削って職人の立場が失われて、数十年経った今ではドイツに職人は残っておらず産地でもなくなったという。

鍛冶屋には鍛冶屋なりの適正価格があって、その裏には技術や素材をつくる鉄鋼業界、付随するさまざまな関係者たちがいる。森(価格)だけをみる人と付き合うと、川(業界と職人たち)もダメになってしまう。産地であり続けるなら後継者となる若手はもちろん、クライアントだって育てる必要があるんだよね。

タダフサで働く大澤真輝さん。工場の案内や取引先とのやり取りなどを務める

曽根さんが口々に語る、後世に続くようにと人を育てることの大切さ。タダフサが掲げる「工房心得」にも、“三条の子供たちの憧れとなるべき仕事にする事”と表れている。

腕利きの職人が一人いても、それを支える産地でないと包丁1本もつくるのがむずかしい。だから、僕らが大事にしないといけないのが(これからを担う)子どもたちの目線。

俺の同級生には鍛冶屋がいて、倅(せがれ)には継がせていないという。そのわけを聞くと「生活ができない」と。でも、その言葉って15年前から延々と言われ続けているけど、この10年間を見てほしい。プレイヤーである俺たちが模索しながら走ってきて地域の産業を立て直してきているわけさ。

だから子どもから「お父さん、何の仕事をしているの?」と聞かれたとき鍛冶職人であることをまず誇りにもって答えてほしい。

タダフサの従業員は現在32名、ここ10年間で3倍近く従業員を増えた

俺らのようなメーカーの基本って、ひとりで売上1000万円稼ぐ必要があるわけ。規模感を考えると、後継についてむずかしいのはわかるけど、それぞれが我が子を養いながら続けてきた鍛冶屋のDNAが流れているはず。

だから俺らが楽しそうにやっていることも大切だし、それが子どもたちにも伝わるしね。昔と違ってタダフサでは完全週休2日制でプラス年末年始、お盆休みもある。休むことを大切にしながら、希望者には休日出勤をお願いし、手当も出している。

鍛冶の未来が明るい、そう思ってもらえるように体制や働きかたを新しいことをどんどん取り入れているところ。育児休暇を取る男性職人もいるしね。

わたしたちのまち、三条市を住みたいと思えるように

曽根さんからおすすめする本をご紹介してもらう。
三条の鍛冶屋の歴史がわかる「越後三条職人列伝」
製造オペレーションを考える際に役立ったという一冊「ザ・ゴール : 企業の究極の目的とは何か」

曽根さんからおすすめの本として三条の鍛冶屋の歴史がわかる「越後三条職人列伝」を紹介してもらった。

三条市の鍛冶の発祥である「三条総鎮守八幡宮」エリアについて。越後三条職人列伝を片手に見せてもらいながらこれまでと今、そして未来の展望を長時間語ってもらった。鍛冶屋が灯す火は、燕三条地域を起点とし世界中に広がっていくのだろう。

取材先:
庖丁工房タダフサ(三条市東本成寺27−16)
WEB:https://www.tadafusa.com/
CONTACT[mailアットマークtadafusa.com]

編集部:
SANJO PUBLISHING 制作部担当:水澤
メールから[infoアットマークsanjopublishing.com]
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