私の独り言⑤父の記憶
今日は父の日だったんですね
父の記憶
私の事や母の事を今までnoteに綴ってきたが、父の事も残してみる。余り良い記憶が無い。
父は昭和5年に生まれ
平成8年に亡くなった
私の昔の記憶は父の事含めてまだら。
大人になってからの事も子供の頃の事もなぜかあまり思い出せない事が多い。
小さい時から父と母の仲は良いほうではなかった。記憶に残っているのは、酔っぱらって大声で怒鳴り散らす父の様子と黙りこくって下を向いたままの母の姿。鬼の様な顔で怒りをぶちまけ皿を投げつける父の姿。
私が間違った事をしてしまった時は歯を食い縛れと頬を叩かれたし、玄関の外に長時間出された。
いつも怖かった。
声を聞いただけで何も言葉が出なくなり涙が溢れてしまっていた。
楽しい記憶はほとんど無く
最悪な記憶ばかり。
その頃は当たり前のどこの家庭でもみられる父の風景だと思って諦めていた。
有り難い事に学校に行き、先生やクラスメートと過ごす事で心を沈める事が出来ていた。
学校では勉強は中の下、活発に体育に参加し、男子と馬跳びやプロレスの様なじゃれ合いをする女の子だった。女子特有、幾つかのグループに別れいざこざが起きて対処するのが苦手でいつの頃からかそれらの派閥グループとは関係を持たないその他の一員として存在していた。
家庭の中の事はこれまで誰にも話した事は無く今日が初めてかもしれない。
世の中には家族との関わりによって辛い生活をしている人が沢山おられる。私の過去など大したことはないが、その当時子供1人では解決出来る問題ではなく目を耳をふさいで何とかやり過ごしてきたような気がする。
私は本を読む事が好きだった。
非現実的な物語の中に入り込み自分がその中で過ごすような感覚で本を読んでいた。
好きだった本は幾つかあるが中でも佐藤さとるさん著『誰も知らない小さな国』は大人になってもまた読み直す程大好きな本の1つ。どれだけ助けられたかわからない。
本の事はまた改めて綴ってみたい。
きっと現実逃避していたのだろう。
そんな父は私が結婚し、孫が出来た事がとても嬉しそうだった。それだけは親孝行できたように思える。
母から聞いた父の事
母が結婚したのはお見合いだったそうだが「私は騙された」といつもぼやいていた。
母はとても苦労したのだと思う。
それを聞かされていた私はどうする事もできず、父に対して負の感情しかない。
父は母との結婚当初2階までの階段を登る事が出来無い程体調が悪かったらしい。それを見合い相手の母は知らずに結婚したそうだ。
母はずっと看護師として働いていた。
父は結婚してすぐに入院、心臓弁膜症である事が判明し何度も何度も入退院を繰り返し手術も何度もしていたが私は余り記憶に残っていない。
私の父の記憶
覚えているのは手術中病院の中を探索した事。酷いと思われるかもしれないが、小学生だった私は父の命の事を全く考えていなかった。
父は何度も何度も手術をした為、背中・胸からお腹にかけての手術跡がありブラックジャックに出てくる患者の様だと思った事。
水分摂取制限があったのだろう、入院中喉が乾いた時は院内の製氷所にある氷を取りに行き1粒ずつ舐めていた事。
また少し元気になっていたある時期には何の仕事かよく理解していなかったが仕事に行ったりスナックに出入りしたりしていた。家で『くちなしの花』『みちづれ』をよく練習していた。
お陰で私は練習しなくても歌える。
私が社会人となり一人暮らしする為に家を出る時、「俺の飯は誰が作るのか」と不機嫌になった事。
今考えると入退院を何回も繰り返していた父は、きっと孤独だった。母からも理解されず身体もきつく、思うようにいかない人生に絶望を感じていたはず。
私は主人と結婚後に両親と同居せずに、車で20分~30分位離れたアパートに住んでいた。しかし主人も家族の一員になった事で少しずつ父が変わってくる。
父は自分が代金を払うから食事に行こうと誘い、年に何回か行く事を楽しみにしていた。
フグ、地鶏、寿司などそれまで食べた事が無いような物をご馳走してもらった。
孫を抱いて喜んだのも束の間その子の1歳の誕生日を待たずに父は高熱を出し、入院。
一週間であっという間に亡くなった。
父とは本音で話をした記憶はない。
晩年は幸せそうだった。最期になった入院時「あの子(孫)が小学生になる頃まで生きていたかったなぁ」と母に言ったらしい。死期が迫っている事を感じていたのだろうか。
今、父の分まで母の介護をしているのかもしれないと思う。
母はずっと父と結婚した事を悔やんでいた。しかし離婚はせずに父の最期を看取った。
色々な夫婦間、家族の在り方がある。
何が幸せなのか?
わからないが、今命有る事を感謝したいと思う。
死に逝く時に初めて解るかもしれない。
読んで頂きありがとうございます。
今日も明日も良い事がありますように。
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