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終点の氷細工屋

文藝MAGAZINE文戯14 2021 Spring 掲載作です。お題は「花言葉」
お屋敷の脇、どくだみの咲く通学路は私の思い出の風景でもあります。
母がせんじ薬にするつもりで庭の隅に植えたものが 今では随分広がっています。多少荒っぽく抜いたって元気に根っこを広げていきます。強い花です。

◆終点の氷細工屋◆


誰かの呼ぶ声が聞こえる。

寂しげな笛のような音が遠く響く。振り向いてあたりを見回しても誰もいない。細い道。辺りは真っ暗な闇だ。踏み出したらその先、足元に何も無い。不安定な姿勢になって仰向けに倒れそうになり、握りしめた大切なものが、開いてしまった手のひらから離れていく。
「大切なもの」はきらりと光って一瞬空中に浮き、白い花の咲く繁みの闇に消えた。
いつもの夢だ、早く醒めなければ。

***

「お父さん?お父さん?大丈夫?」

目を開けると こちらを覗き込む女性の輪郭が見えた。目鼻立ちはぼやけて確認することができない。ここがどこで 今がいつなのかも掴めなかった。視界と頭の中が少しずつクリアになってきて 相手が娘の由香だということがやっと解る。

「なんだ、来てたのか」
「来てたのかじゃないわよ、またヘルパーさん怒鳴りつけたでしょ。相談受けたわよ」
そうだ、ベッドサイドのテーブルから食器を取り落として割ったのは自分だ。けれど、簡単に代わりのものを差し出し、子供を慰めるような物言いをされ、頭に来たのだ。食器だけではない、この家のもの全て、懸命に働いたことの証、長年掛けて選び、集めたものだ。
「あんな安物の皿で食事なんかできるか」
「あら、私が選んだのよ。丈夫だし、軽いし、これからはこっちの方がいいと思って」

そっぽを向いていても、懲りずあれこれ話しかける由香を振り切って外に出た。耳も悪くなり 苦労して聞き取っても何を言っているのか解らない時もある。コップに挿した雑草を見せて、何やら花言葉の講釈をしていた。あの白い花、ああ名前は何だったか。聞き返すのも面倒だし 理解したいとも特に思わない。どうせ大したことではないのだ。

角を曲がり間違えたのだろうか、目の前の風景に違和感を覚える。見知らぬバス停が見える。この辺りは長く住んでいるのだ、一筋間違えたからとて 見たこともない道なんぞに出くわすものではない。何かの勘違いだろうと 目を凝らして前を見、振り返って、来た道を確かめる。
バス停は古臭い木造で、ベンチの周囲に囲いと屋根がある。錆が浮き、文字も消えかかった時刻表が掲げてある。近づくと、柱の陰に隠れて見えなかったのか、女の子がひとり座っていた。
花の刺繍の入った丸襟の水色のワンピース、白いレースのカーディガン。肩より短くまっすぐに切りそろえた髪。色白で手足も細くひ弱な感じがするが、姿勢良く座る様子には育ちの良さと芯の強さが感じられる。

「すみません。今何時ですか?」
急にあちらから話しかけられて 少しうろたえる。子供と話をするなんて 何十年ぶりだろう。腕を見たものの腕時計をしていなかった。その無意味な動作を誤魔化すために 咳払いをひとつ、する。どこかで会ったことがあるだろうか。誰かに似ているのだろうか。初めて会った気がしないが、何も思い出せない。
少女の横顔を窺っているうち ふと知っている香りがしたような気がした。草の葉の香り、花の香り…何だろう 何かひどく胸が痛いような苦しいような気持ちになる。

*
 少女に付き合うつもりなんて特別になかったのだ。ただ、目の前に停まったバスは前乗りで、保護者だと思われたのか運転手に強く促され、乗る羽目になってしまった。日は暮れかけており、くすんだ色のバスは中も薄暗くて他に乗客は一人もいない。子供を一人で放っておくことができないような気になったこともある。

「ずっと『氷細工屋さん』だったのよ、わたし」
一番後ろの長い座席に少しだけ距離を置いて腰かけると 少女は窓の外を眺めたまま言った。
「氷細工屋」という聞きなれない言葉と「だったのよ」という語尾が奇妙に聞こえたが 反対側の窓の外を眺めたまま、少女の言うに任せて黙って聞いた。子供らしくない古臭い言い回しを交えながら その子が語ったのはこんな話だった。

──お店を開くときは 鳥の形をした笛を吹くの。少しもの悲しくて、でもとっても優しい不思議な音色。
お店っていっても カウンターと小窓がひとつあるだけ。お客様が差し出すお代金を受けとると、わたしは小さな氷の塊を取って 小刀で細工を始めるわ。羽ひとつひとつ細かい細工の入った鳥の形だったり 薄い花びらが何枚も重なった、それは繊細な花だったりするの。それぞれのお客様に「合わせて」作るのよ。わたしがつくる氷細工はね、時間が経っても簡単に溶けたりはしないの。

小銭を握りしめ順番を待つこどものお客様。自分のために何を作ってくれるのか ドキドキしていることが目の輝きから解るのよ。つんと澄ましたご婦人や難しい顔をした紳士も来る。たいていが「何を作ってくれるかなんて気にもしていません」っていう顔で並んでいるの。だけど「どうぞ」、と手渡した氷細工が思ったより単純な形だったり こどものお客様より「つまらない」動物だったりすると ちょっとだけ、がっかりした顔をして「別に期待なんてしていなかったし」「大人はこんなもの欲しがらないものだ」って、順番待ちのこどもにあげてしまったりするの。せっかく並んでいらしたのにね。

窓の外の空の茜色が、だんだん紫色に変わってゆき 樹や家々が影絵に変わる。道は先に行くに従ってどんどん細くなり 舗装もされていない石ころだらけの田舎道に入っていった。長く走っているように思うのにバス停で停まる様子もなく、何のアナウンスもない。少女の声だけが静かな車内に緩やかに流れる川の水音のように響いていた。

「氷細工屋さん」の話はそのまま続いていたが、ままごと以外にこの子が「店をやっていた」なんてことはあり得ないし、そんな店が実際にあるものとも素直に信じられず、とはいえ子供相手に疑問を投げかけたり嘘つき扱いをしたりするのも面倒だ。どうせ夢だか空想の類だろうと思いながら、相槌を打つ気にもなれず目をつぶって眠ったふりをした。

***

「あら、熱い。熱、ありそうね」

ああ、なんだ。夢を見ていたのか。気づくとまだ由香が傍にいた。額に当てられた手が ひんやりと心地いい。
あの白い花は「どくだみ」だ。急にその名前を思い出す。同時に由香の語った花言葉の話が今頃頭に響いて来た。

「雑草は全部抜いて綺麗にしろって庭掃除の人に言いつけたらしいけど、これってお母さんが植えたのよ。覚えてない?せんじ薬や化粧水にできるからって」
「せっかく金に困らないようになってやったのに、あいつの貧乏性は治らなかった。婆さんと同じだ」
「亡くなったお祖母ちゃんやお母さんのこと悪く言わないで。お父さんの頑固で我儘な性格にお母さんたちがどれだけ泣かされてたか解ってないでしょ」
由香は早くから家を出て、勝手に結婚し勝手に離婚した。戻って一緒に住むとは言わないものの、最近は時々訪ねて来るようになっていた。年月が娘を必要以上に逞しく変え、何を言っても応えない。怒ってもむしろ面白がるような目で見返してくる。

「どんなに抜かれても負けないこの花って何だか健気よね。ドクダミって地下茎でどんどん増えるんだって。花言葉は『野生』、それから『自己犠牲』。こっちはお母さんにぴったり」
由香の言うことなど聞こえないふりをして目を閉じ、先ほどの夢について考えているうちにまた眠りに落ちる。


「お客さん、お客さん、終点ですよ」

聞いたことのある声だ、と思った。暗いせいなのか運転手の顔が見えない。目を凝らしてもその顔だけが薄い靄でもかかったように分からないのだ。誰の声に似ているのだろうと思いながら立ち上がり、隣に座っていたはずの少女を探す。乗るときにバス代を支払っていないことに気づき、運転席横の運賃箱に近づくと
「もう頂いておりますよ。それより…」
運転手は先に降りた少女の方を手で示した。慌てて後を追って降りた。

「払わせてしまったのか。いくらだったかな?」
ポケットを探るが財布が見当たらない。当惑していると少女はこちらを見上げて微笑んで答えた。
「このバスね、お金は要らないのよ」
からかわれているのだろうか。最初からおかしなことばかり言う子だと思っていると 少女は続けて当然のことでもあるように言った。
「懐かしむ気持ちとか、思い出そうとする気持ちでバスが動くのよ」
少女は軽い足取りで道を先に進んでいく。低い空にも星がまばらに輝き始めている。

馬鹿々々しいと少し苛立ちを感じながらも、ふと思い出したのは バスの運転手の声。あれは初めて雇った運転手の声と似ていた。会社を興し軌道に乗せ落ち着くまでの数年間、毎日のように朝から愚痴を聞いてくれた。穏やかで優しいずっと年上の彼。
些細なことでクビにしてしまったのだ。余計な口を出すな、何様だと思っているのだ、お前の意見なぞ求めてはいないと詰った時、向けられた寂しげな目さえ癇に障った。元には戻せない自分の言葉に、ずっと「正当な」理屈をつけて 幾度も苦い気持ちを押しやった。彼以来 運転手相手に自分の弱みを見せたり、気持ちを打ち明けたりするなんてことは一切しなくなった。
長く続く煉瓦塀に沿って歩き 少女が立ち止まったのは大きな屋敷の門の前だった。

「ここよ、覚えてる?」
後ろ姿を見せたまま少女は言う。暗闇の中で目を凝らす。
古い記憶の中の道と確かに似ている気はするが、それはこんな細い田舎道だったろうか。煉瓦の塀はこんなに低かっただろうか。大きな門のある家、小道の両脇にどくだみが群生していた。香りが纏いつく。煉瓦塀の反対側は暗い繁みになっていてその向こうは小さな川が流れている。
「貴方はこの繁みが怖かったのよね?だからいつも小走りで通っていたわ」
くすくす笑いながら少女は言う。それは私が小学生の頃のことだ。

だんだんと思い出していたのだ。一人きりの通学路。道端のどくだみの香り。擦り切れた靴が水たまりで濡れ、ぬかるみでドロドロになって泣きそうになったこと。おさがりのランドセル。この道は大嫌いだった。そうだ、何よりもこの屋敷。重厚で威圧的で、ちっぽけな自分をせせら笑うような大きな門扉。

一体この子供は私の何を知っているというのだろう。まるで自分自身が私と知り合いでもあるかのように すらすらと何十年も昔の話をする。惨めな子供時代を思い出し、気持ちをかき回されて納得がいくわけがない。

「わたし、氷細工屋さんだったのよ」
私の憮然とした表情にも気づかないのか、また 少女は同じ言葉を繰り返した。
──待っててね。
そう言って、躊躇することも無く少女は重々しい門扉を押し開け、中に入っていった。窓に順々に灯りがともる。冷たくて重苦しいだけだった建物が柔らかな光に包まれた。死んでいた家が息を吹き返したかのようだ。カタンと音がした方を見ると塀のすぐ近くの出窓が開き、少女が少し身を乗り出した格好でこちらを見下ろした。

「ね、ここなの、『お客様』。思い出してくれた?」
まぶしい部屋の灯りに目を細める。窓越しに見える天井のシャンデリア、出窓には、動物や果物を象ったたくさんの小さな硝子の置物がきらきらと光を放っている。少女がこちらに乗り出し 白くて細い腕をいっぱいに伸ばして 何かを差し出した。
「危ない」
乗り出す姿が不安定で頼りなくて、落ちてくるのではないかと思った。咄嗟に手を差し伸べる。
──同じようなことがかつてあった。

あの時もその「少女」は窓を開け 子供の私を「お客様」と呼んだ。記憶がよみがえる。何故忘れたままでいられたのだろう。
「嬉しかった。本当は『氷細工屋さん』のお客様になってくれる人なんかいなくて、ずっと一人で道を行く人を相手に空想していたの」
思い出の中のあの子が言っているのか、今そこにいる少女が言っているのか、もう区別もつかない。聞きたいことはたくさんあって、言わねばならないこともたくさんあるような気がした。

──小学生の登下校の時間でさえずっと暗い、その道が怖かった。見上げるには眩しすぎるその窓を、なるべく見ないふりをして駆け抜けていた。その日立ち止まったのは 先に窓が開き、笛の音とその子の声が聞こえたからだ。自分に向かって「お客様」と呼びかけたように思ったが きっと聞き違いだと思い直した時、窓から彼女が身を乗り出した。か細い手が何かきらきら光るものを自分に向かって差し出した。お互いがまだ小さくて、手が届きそうで届かなかった上、一瞬のためらいのせいだったろう、少女の手から離れた白鳥の形のガラス細工は繊細な光りを放ちながら私の手をすり抜け、煉瓦塀の隙間に落ちて行った。

あの子が勝手に窓から落としたのだ、自分には関係ない。そんな言い訳を何度も頭の中で繰り返して逃げた。それでも気になってこっそり探しに戻ると、小さな白鳥の羽の欠片だけが道端に落ちていた。

ずっと気になって街のショーウィンドウで似たものを探したが、持ち合わせの小銭で買えるようなものではなく、塀のあたりを探してみても羽の欠片の他には何も見つけられはしなかった。唯一の宝物だったビー玉を一つ取り出して握りしめ、勇気を振り絞ってその屋敷の前に立ったのだ。

けれどそれから一度も、あの窓に少女の姿を見ることはなかった。何度も門の前まで行ったものの、どうしたらいいのか、大人が出てきたらどこからどういう風に説明したらいいのか解らなかった。

あの日も同じように立ち尽くしていたら屋敷の大きな玄関扉が開き、黒い服の大人が大勢、俯きがちに出てくるのが見えた。女のひとが声を上げて泣いていた。肩を抱き合う人、ハンカチで顔を覆う人。小さな棺が運び出されるのが見えた。
ただならぬ雰囲気に声をかけることもできず迷いに迷った末、あの窓の外、塀の一番近いところに持っていたものをそっと置いた。思いついて摘んだ、どくだみの花束を添えた。
また会いに来よう。今度会えたら話しかけてみよう。そう思った。しかし何度傍を通っても窓は開くことは無く、屋敷に灯りが灯るのを見ることはなかった。もう決して会えない、本当は気づいていた。

「嬉しかったの。あなたに贈り物を貰ったこと」
どのくらい長く思い出に浸っていたのだろう。窓から乗り出して語り掛ける少女の声を聞いて我に返った。
「『私』に渡すものを探してくれたのでしょう?その間 ずっと『私』のことも考えていてくれたのでしょう?それが、何よりも嬉しかったの。有難うが言いたかったの」
声の聞こえた窓の方を見る。けれど、そこにはすでに少女の姿も優しい灯りもなく、辺りは深い闇に包まれ、どくだみの香りだけが強く漂っていた。あの時も今も、『あの子』に何か伝えることがあったはずだ、何か告げるべき言葉があったはずだ。言葉を探して、ぼんやりと立ち尽くす。

***

気づくと天井が目に入る。ゆっくり視線を周囲に動かすと見慣れた自分の部屋だった。サイドボードの上の簡素なコップには、あの小道の脇に群生していたのと同じ白い花が一輪挿してある。

「ご主人の言いつけだからって、庭掃除の人が草も花もすっかり抜いてしまうのを、あまりにも可哀そうだって、由香さんが」
声のする方を見ると、私がコップを投げつけた、あのヘルパーだった。
「とっくに辞めたのかと思った。えっと…」
名前を思い出しあぐねていると、気を悪くした様子も無く自分の名前を告げ、楽しいことを話すように目を細め、えくぼを見せて言った。
「あんなぐらいでお暇を頂いていたらヘルパーは務まりません。もちろん交代をご希望で派遣先にお申し出を頂いたら別ですがね」

手伝ってもらって身体を起こし、先ほどまで見ていた「夢」について考える。どこからどこまでが夢だったのかもはっきりしない。まだ頭はぼんやりしていた。

「どくだみは臭いとか言って嫌う人もいるけれど 抜かれても抜かれても逞しく育って花をつける、何か親近感を覚えます。ああ、花は案外可愛いんですよ。薬草にもなるし」
「花言葉は『野生』と『自己犠牲』、か」
「よくご存じで」
ヘルパーは少し大げさに意外そうな表情をした後、ころころと笑い、付け加えるように言った。

「そうそう、でも、もう一つの花言葉があるんですよ」
「もう一つ?」
「『白い追憶』。素朴な野の花に、何か懐かしい日々とか風景を感じる人が多いのかもしれませんね」

小学生の自分と、先ほどの夢の中の自分。思い出の中の少女と夢の中の子供。結局 誰に対しても最後まで言えなかった言葉を考えてみる。さっき聞いたヘルパーの彼女の名前は、照れくさいので覚えられないふりをした。きちんと謝らなければと思ったが 簡単には言葉が出ない。
「この間は…この間は…えっと」
咳払いで先を胡麻化すと、覚えてくれるまで何度でも教えますよ、という風に彼女は悪戯っぽく眉を上げ、自分の名前を告げた。

「窓を開けましょうね、いい風が入ります」

言いかけた言葉の先を促すでもなく、彼女は柔らかく微笑むと、窓を開けて回った。
さわやかな風がカーテンを揺らし、緩やかな日差しが部屋を満たしていく。


                了


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