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優しい夜と打ち上げ花火

文藝MAGAZINE19 2022 summer  掲載作品 テーマは「花火」です

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暮れていく空の下、鹿子(かのこ)さんは僕の少し前、ペースを崩すことなく歩き続けている。顔を真っ直ぐ前に向け、その先にある何者かに挑むように。
 さっきまで残っていた夕焼けも色褪せ、空はだんだん紫から藍に変わる。星がいくつか数えられるようになってきた。周囲は田んぼと畑ばかりの田舎道で、民家は遠くにぽつりぽつり見えるだけだ。いつも使っている駅のすぐ先にこんな田舎の風景があるなんてはじめて知った。
 まだ明るい空に 最初の打ち上げの音が響いた時 
──花火大会開催の合図ね、お天気になってよかった 
急に立ち止まった鹿子さんがくるりと振り向いた。話しかけられて焦る。歩く速度を少し速めて近づき、先を歩き始めた彼女の背中におずおずと聞く。
「行くつもりじゃなかったの?花火大会」
 華やかな浴衣姿で早くも盛り上がっているグループ、楽しげなカップルや家族連れ、いつになくごった返す駅前で彼女を見つけた。誰かと花火大会に行く約束なのかと思ったが、鹿子さんは立ち止まってその賑わいをぼんやりと見たあと、いきなり向きを変えて改札に入っていった。様子が周りに馴染まなすぎて、咄嗟に後を追ってしまった。
 鹿子さんの降りたのは乗り継いだローカル線の小さな無人駅だ。改札を出ると鹿子さんが腕組みして待っていて、僕に声をかけたのには驚いた。気がついているなんて、思ってもみなかったのだ。
 鹿子さんは僕のストーカー紛いの行為について怒りはしなかったが、
「ここから結構歩くつもりなんだ。付き合ってくれても構わないけれど、それ程面白くはないかもしれないわよ。それに、帰りが遅くなるとあなたが困るでしょ?」
と眉を潜めて言った。
「毎年、花火大会の日は遅くなってるよ。そのままファミレスで長居したこともあるし。親もそれほど心配しない」
──どこに行くつもりか知らないけど、鹿子さんの邪魔はしないから、一緒に、ううん、後ろでもいいから歩いていてもいい?
僕がそう言うと、鹿子さんは少し困った顔で笑いながら
「では、後ろで見守っていて」
と答えた。
「ここの花火大会をね、高いところから見た画像をネットで見つけたの。混雑する河川敷の会場じゃなくて、ずっと川上から見下ろした遠い花火。それがどこからなのか調べたら、この先の丘の上だった」
──思ったよりずっと遠かったみたいね
鹿子さんはそう言って遠くの高台を指差して笑うと、あーあ、私っていつもこうだ、と肩をすくめ両の手を広げてみせた。
「大丈夫?一人で夜に歩くなんて、まだ怖くてできなかったんじゃないの?」
「この頃は大分いいの。自信も付いてきた。もしかして心配してついて来てくれたの?」
──兄弟揃って優しいんだ
鹿子さんはちょっと悲しそうな顔をして消え入りそうな声でそう言った。
「最初に夜道を一緒に歩いたから 篠田くんのこと好きだと思ったのかもしれない」
鹿子さんは歩く速度を落として天を仰ぐ。他に聞こえるのは水路を流れる小さな水音と、虫の声。鹿子さんの声が響いて消えると、余計に静けさを意識した。
花火大会の会場を数駅も離れたこんな田舎道で、彼女の後ろを付いて歩いている僕も「篠田くん」だ。けれど、解っている。彼女の言ってるのは僕のことではなく、六歳上の大学生の兄、拓己のことだ。胸がツクンと痛む。
「送ってくれて、ずっと話し続けてくれて、一人っきりで怯えながら部屋に帰らなくて済んだから」
──この人がいてくれたら安心なのだ、この人と一緒にいられたらな……
そう思ってしまったのかもねと、鹿子さんは他人のことみたいに続けた。
「地方から出てきて、いきなり夜道でひったくりにあったって」
「篠田くんに聞いたんだ」
後ろから来たバイクの男に、鹿子さんは鞄を無理やり奪われた。
「驚いて、怖くて声も出せなかった。それからひとりで歩くのが怖くなったの。笑っちゃうよね、こんな歳になって」
「何歳になったってそんな目に遭ったら怖いでしょ」
当たり前だ、と僕は思う。なのに鹿子さんを部屋に送り届けたそのすぐ後で、拓己は笑い話みたいに僕と母にそのことを告げた。話しながら他の女の子とのラインに適当な返事を打っている、そんな拓己の様子にいらいらしてスマホを奪って投げてやりたい気分になった。

「僕は小さい頃、夜に外に出るのが怖かった」
月明かりの中、陰影を増す木々のシルエットや流れていく雲を見るのが怖かった。夏休みに泊まりにいった祖母の家のまわりも丁度こんな風に田んぼが広がり、夜はとてつもなく暗かった。
昼は親しい風景が どうして夜はこんなによそよそしいのだろう。蝉とりした大きな木も、魚を掬って遊んだ川も、夜見るとただ怖ろしく、言いようもない不安が胸を締め付けた。底なしの闇が全てを呑み込み、自分がどんどん小さくなって消えてしまいそうな、そんな気分になった。
「解ってるくせに『星が綺麗だよ、出てきてごらん』とか言ってさ、僕を外に連れ出しては、置いてきぼりにするんだ」
「篠田くんが?ふふ、意外と意地悪なんだ」
締め出しをくらい、何度も大泣きした。気が付いた祖母にドアを開けてもらう。最初に叱られるのはもちろん拓己の方。けれど、いつまでもぐずぐず言う僕も結局、小言を食らう。
──怖がりもたいがいにしなさい。何にも怖くないよ、いつまで泣いてるの
拓己は慌てて僕を庇い、自分が悪いんだ、ごめんなさい、ごめんなさい…….泣きながら謝ってくれた。
「そういうところが、拓己らしいんだけどね」
お兄ちゃんらしいことなんてできっこないし、「お兄ちゃんだから」我慢したり「お兄ちゃんでしょ」とか言って怒られるのは嫌だからと、最初から名前で呼ぶように決めたのは、まだ幼い頃の拓己自身だった。
僕がそんな風に続きを話すと、鹿子さんは深く頷く。
 
遠くで、ドーンと音がした。上り坂のずっと先の空が一瞬、明るくなる。
「あ、始まっちゃったね」
「まだまだ行かないと、花火の先っぽも見えないなぁ」
鹿子さんはそう言いながらも、見えない花火を結構面白がってるみたいだ。
「あの日ね、友達に誘われて行った飲み会に篠田くんがいたの」
高校が同じだったといって、拓己と話が盛り上がる友達をぼんやり見ながら、黙々とおつまみを食べていたら、鹿子さんがひったくりに遭ったことや、夜道が怖い話までされてしまった。
──じゃあ、オレ送って帰るわ、方向も一緒みたいだし
「初対面だし吃驚して断ったけど、遠慮なんかしなくていいよって、豪快に笑われて」
 いつの間にか、空は暗さを増していた。仰ぎ見る。両の手を伸ばす。周囲の山は深い陰を作り、左右には田畑が黒々と広がっている。時折緩い風が吹く。草の葉が波打って揺れ、ひそやかに囁く。
「星が空から降りてくるみたいだ」
「私は逆に、自分が吸い上げられて浮き上がる感じだと思ってた。大きなカプセルがふたを開けて私を包み込むの」
「SF?ファンタジー?小さい時から好きだったんだってね、ジャンルを問わず。あの時も拓己に本を貸しにきた」
「でも篠田く……えっと、『拓己くん』は、本当は読書とかより人と関わっている方が好きよね。いつも周りにたくさん友達がいる」
「本読んでるのなんて見たことないからさ、鹿子さんが本を持って拓己を訪ねて来た時は、ちょっと驚いた」
「私に話を合わせてくれただけかもしれない。なのに、無理やり貸しちゃって。なんだか恥ずかしいことをした」
「そんなことはないと思うけど。確かに他人に合わせるっていうか、話し相手になるのが上手いんだよね。相手を褒めるのに躊躇が無いし、何かしてもらった時の喜び方と感謝の表し方は一級品」
「そういうのって天性のものなんだろうね」
「母も祖母ちゃんも拓己のそんなところにやられちゃうんだよな、いつも」
「女性に人気?」
話をしているうちにも間をおきながら次々と花火が上がる。でもまだ、こんもり繁った木々の向こうの空が明るくなるだけだ。
「だけど、打ち上げ花火」
「え?」
「打ち上げ花火みたいだなって思ってた。拓己の女の子との付き合いってさ、長く同じ人ってことが無いんだ。毎年花火大会も違う相手と行ってるし」
──あなとは『友達』がいいの、友達に戻りましょうって、どういう意味だ?
訳が解らないと拓己は毎回嘆くのだ。
「それはきっと」
鹿子さんは目を細め、少し考える様子をすると続けて言った。
「篠田くんの『特別な一人』になるってことが難しいからなんだと思う」
鹿子さんの深いため息が夜の闇に吸い込まれていく。
「私はね、それで言うと線香花火かな」
「線香花火?」
「うん、それも湿気ちゃって、火もつかないの。暗がりでどっちが先かもわからなくて朝になって、道に落ちてる」
線香花火の控えめな輝きが鹿子さんのイメージと重なって、僕は鹿子さんがうちに初めて来た日を思い出す。

***
 今まで家に来た女の人たちと鹿子さんの印象は、かなり違った。拓己はあいにく留守だと言うと、ずっと年下の僕に丁寧なお辞儀をして、「渡しておいてください」と本を差し出した。
ぺこりと下げられた頭、黒い髪、化粧っ気の無い顔。ぎこちない動きで髪をかき上げたその指は爪が律儀に切りそろえられていて、何だか子どもの手みたいだった。クリアフォルダーに、少し角ばった小さな文字の並んだレポート用紙が見える。
「イケガミ……カノコ?」
僕が指さして読むと彼女は一瞬驚いたような表情を見せ、そして嬉しそうに目を輝かせた。
「凄いね。一度で読んでくれた。イケウエシカコとかカコとかよく読まれるんだけど」
──偉い。正しく読んくれる人って案外少ないのよ
初めてお姉さんっぽい余裕を感じさせる言い方で付け加えた。それでも、そろそろ拓己も戻ってくるかもと僕が言うと、さっきの余裕はすっかりどこかへ行って、ぎくしゃくした別れの挨拶をすると、あたふたと帰っていったのだった。

「何だか変わった人だよね、その本、読みたかったの?」
帰ってきた拓己に言うと、
「うん、すっごく面白いらしいよ、読む?」
手に持った文庫本を差し出して、拓己は何の曇りもない顔でにっこり笑った。


「夜の道、もう一人でも歩けるって思った?」
「ここまで暗くて何もないところとは思わなかったの。思ったよりずっと遠いみたいだし」
「大丈夫?」
「本当はね、胸の動悸は収まらないし、星の美しさなんて感じるどころじゃない。本当は怖くてしかたない」
鹿子さんは振り向いて僕を見て言った。身体の動きに合わせて髪が揺れた。鹿子さんは泣きそうな顔で笑っていた。

鹿子さんは少し後戻りして僕の横に並ぶと、ふぅっとため息をついた後、ゆっくり空を見上げる。大きな花火が高く上がるときは、上の部分が少し見えるようになってきた。
「そんなに怖いのに、ひとりで歩くつもりだった?」
「うん。でも、後ろにあなたがいる」
「いつ気づいたの?」
「あなたが電車に乗ったとき。ごめんね、結局付き合わせてしまって」
「何で謝るの。勝手に後を付けて来たんだよ。後ろをひとに歩かれるのだって、怖かったかもしれないのに」
「大丈夫よ、気遣ってくれてありがとう。感謝してるんだ。あなたが付いてきてくれて俄然心細くなくなったんだもの」
鹿子さんは脇に生えていた草の葉に手を伸ばし、ぷちりと取って水路に流す。緩い流れに乗って草の葉の船が離れていく。頼りなくあちこちにひっかかり止まりそうになりながら。
「ずるいよね、私。こんなんじゃ何にも克服できない」
あの日から、夜道を一人で歩けなくなり、日が暮れていくことさえ怖くなった。動悸が激しくなり 呼吸の仕方がわからなくなる。体調がおかしくなることへの恐怖感まで重なって、夕暮れ時に外へ出るのには相当な勇気が必要だったという。
「いいんじゃない?ゆっくり慣れたら。別に無理して一人で歩くことないじゃん」
すぐそばの草むらで虫がそっと鳴きだした。大丈夫だよ。あなたが悪いんじゃない。あなたが特別弱いんじゃない。
花火の間隔が短くなり、ドーンという太い音に複数の弾けるような音が重なる。
「鹿子さんの気が済むまで、ずっと一緒に歩くから」
僕の声は花火の音に消されて、鹿子さんには届かない。
「ありがとう。でも……」
鹿子さんは何か言いたげに 辺りを見回してから言葉を切り、大人の声で僕に言った。
「ここからだと余計に帰りが遅くなる。いつまでも付き合わすわけにはいかないわ。あなたは家に戻らなきゃいけない」
草の葉の船はすっかり遠くに流れて行き、きらきら月明かりに水が光るばかりだ。
『あなたは』の言葉の響きにひっかかった。ぐさりときて問い返す。どうぞ簡単に肯定しないで。
「僕が、子どもだから?」
道に延びた僕たちの影。鹿子さんの方が少しだけ長い。
「心配してくれる家族が待ってるからよ」
鹿子さんはとびきり優しい目をして僕を見ると、そんな風に言った。

***
「借りた本、こんなところに置きっぱなしにしないの、カノジョのおすすめなんでしょう?拓己」
母が部屋を片付けながら、からかいぎみに注意する。
「シカコさん?『カノジョ』って、そんなんじゃないし。わざわざ持ってきてくれるなんて思わなかった」
拓己は鹿子さんの名前を、笑いながら「シカコさん」と呼んだ。
「文学とか語り出したら急に元気になる子でさ、目なんかキラキラさせちゃって、意外とよく笑うんだなぁって」
送ってあげると言ったものの、弾まない会話に四苦八苦して、やっと拓己がほっとできたのが好きな本や作家について鹿子さんが語り始めた時だったという。

 僕が鹿子さんに本屋で会ったのは それから少したった頃だ。上の方にある本を取るため背伸びして、細い腕を真っ直ぐ棚に伸ばしていた。声をかけたって、僕が誰だかなんておぼえてないかもしれない。そっと後ろを通りすぎてレジに向かった。

「弟くん?」
本屋の先、少し歩いたところで、後ろから呼ばれた。振り向くと立ってたのは鹿子さんだ。息を弾ませながら、僕の手に新しいカバーのかかった文庫本を押し付ける。意味が解らなくて、鹿子さんの顔を見上げると
「お財布の中身、足りなかったんでしょ。ああ、あなたの選んだ本が解ってよかった」
選んだ本をカウンターで差し出したあと、財布のなかを見ると思ったより入っていたお金が少なかった。焦りながら小銭をかき集めたものの、ほんの少し足りない。後ろに並んだ人の舌打ちと店員の冷たい目線の中、やっぱり買いません、と言うしかなかった。
店員はあからさまに苛立った様子で僕の選んだ本を背後に押しやり、次の客の会計をする。僕がすごすごと店を出る様子を離れて見ていた鹿子さんは、同じ本を選び取ると慌ててレジに持っていってお金を払ったのだという。
「前からここの店員さんの本の扱いを見て思ってた。優しくないの。本が可愛そう」
鹿子さんは真剣な目をしてそう言うと
「その本いいわよ。すごく好き」
鹿子さんは僕に渡した本を指して目を細め、照れ隠しなのか急に向きを変えると、逃げるように手を振って立ち去った。遠ざかる鹿子さんの後姿を眺めながら僕は間抜けに口を開けたまま、ただ立ちつくしていた。
手渡されたとき触れた鹿子さんの指先の感触が残っている。「弟くん」と呼ばれたことがちょっとだけ、寂しかった。

 それから僕は何回も鹿子さんを見かけた。鹿子さんはいつも、僕が塾に行くときの道の反対側の歩道をひとりで歩いていた。西日がじわりと肌を焼き、こんな時間好んで歩く人なんてまずいない。盆を過ぎ空気が秋めいてきて、日が傾くのがだんだん早くなる。何度も、同じ時刻に歩く彼女を僕は見る。鹿子さんはますます真剣な表情で、足早に通り過ぎるのだ。何かに追われるように。何かに取り付かれたように。
──今日こそ話しかけてみよう。
決意して家を出たのに、今日に限って鹿子さんはいなかった。どうしたんだろうと鹿子さんの姿を探し、そして見つけたのが駅の近くだった。

 *
「帰ろう。もう大丈夫よ。まるで誘拐犯だわ、あなた連れてたら」
全然「大丈夫」そうに見えない青ざめた顔で、鹿子さんはそう言った。
周囲の闇は深まり、星々はくっきりと輝いている。虫の声も一層大きく響いていた。花火大会も大詰めらしく、続けて上がる何色もの大きな輝きが今いる位置からもかなり見えるようになっていた。
「いいの?まだ全貌見えないよ」
「十分よ、ここで最後の花火を見たら帰ろうね」

最後に複数の花火が盛大に上がり、一気に明るくなった空に暗さが戻るとすっかり静かになった。僕と鹿子さんは小さな明かりのついた駅に向かって一本道を戻る。
「あのさ、あれから拓己と会ってる?」
「本を貸しに行った日から?そうね、学食で一、二度会って少し喋って」
「拓己、何か言った?わざわざ家まで来て貰って」
「その事はあんまり思い出したくないな。勝手に本好き繋がりと思い込んで舞い上がってた、情けない」
僕は好きだよ……と言いかけて口ごもる。もちろん本のことを言うつもりだったけれど声にはならなかった。
「あの時『買ってもらった』本、読んだ。あんまり急なことでお礼も言ってないね」
「感想聞きたいな、あなたの」
ありがとうと言う隙も与えず、鹿子さんは自分の感想を語りだす。そんな彼女の嬉しそうな横顔を、しばらく黙って眺めていた。

「あの鞄には、買ったばかりの本が入ってたの」
人気のない駅が見えてきた時、鹿子さんは言った。
次の日の朝、ひったくられた鞄が溝に捨てられているのを鹿子さんは見つけたのだ。朝の平和な日差しの中、散乱した鞄の中身。
「お財布から現金だけ抜かれてた。そういうのも確かに悔しかったけど」
大好きな作家の新品の本が無残に濡れていた。綺麗な表紙が汚れきって中のページが折れていた。
「悲しくて、悔しくて、腹が立って、涙が出た」

鹿子さんのその時の様子や気持ちを想いながら、ホームの蛍光灯に蛾が集まっているのをぼんやり見ていた。電車が来る気配もなく、ホームには他に誰もいない。蛍光灯は古びていて、時折ジ・ジ・ジ・と唸り、点滅する。鹿子さんの手が蛍光灯の明かりの中で一層、白く見えた。本屋で長い間立ち尽くし、背表紙をじっと眺め、決めた本を抜き出すために棚へ伸ばしたあの手だ。
「本には文字だけじゃなくて『想い』があると思うの。作者だけじゃなく、編集者の、装丁した人の、印刷する人や売る人や支持して応援する人たちの」
鹿子さんの言葉は静かだったけれど熱がこもっている。
「ねぇ、聞いていいかな?いつも同じ時間歩いてたのはどこかに行くわけじゃなく……」
鹿子さんは僕の顔をそれこそ穴を空ける気じゃないかと思う程見つめてから、視線を反らしため息をついた。
「見てたんだ」
「うん、真剣な顔してた。怖くなるくらい」
「怖い、かぁ」
鹿子さんは口をツンと尖らして、それからゆっくり笑顔になった。
ホームの白線が月明かりで光る。その上を辿ってゆるゆる歩き、鹿子さんは数歩行って立ち止まる。
「最初は病院にいくつもりだったの。でも、なかなか決心がつかなくて。何度も同じ時間に歩いてたら気が付いた。少しずつ暗くなっていくなって、これってリハビリになるかもって」
「時々、うちの家の見える辺りで立ち止まった」
僕が言うと、鹿子さんは悪戯がばれた子どもみたいにバツの悪そうな顔をした。
「最初は姿を見られたらいいな、と思ってた。偶然みたいな顔して、道路の向こうの拓己くんに手を振るの」
「でも、思った。安易に誰かに支えてもらいたいなんて、そんなのを『好き』と一緒にするなんて、相手にしたってきっと迷惑だよね」
鹿子さんは白線を越え、月明かりに照らされた線路を覗く。レールの上をひらひら羽虫が飛んだ。長い髪がさらりと横顔を隠す。
「拓己くんが私に特に興味ないってこと解ってた。あなたも解ってるんでしょ?」
「拓己はさ、誰にでもあんな感じだから」
言葉を濁した。拓己は鹿子さんの良さが解っていないんだよ。
「悪いヤツじゃないんだ。話しかけたら気さくに喋るはずだし、暗くなったら一緒に帰ってくれると思う。どんどん使ってやればいいんだ。無理したり遠慮なんかしないでさ」
「ありがとう、やっぱり優しいね、弟くん」
「弟くん、じゃなくて{悠人}(はると)。ユウトって読む人もいるけど、ハルト。正しく呼んでくださいね」
空に指で漢字を書きながら言う。
「はい。はるとくん」
鹿子さんは首をすくめてくすりと笑うと、白線の向こう側から ぴょんとこちらへ大きく跳んだ。

駅舎の壁の 古びた時計を見る。
「おうちに連絡だけはしておいてね。もうすぐ電車が来る」
鹿子さんが何度も言うので、ポケットを探る。スマホを持って来ていないことに気がついた。
「私のを使って。拓己くんの電話番号、登録してある」
鹿子さんが自分のスマホを差し出した。
拓己の電話番号に掛ける。鹿子さんの番号表示、拓己にも解るはずだ。出ろよ。ちゃんと出ろ……コールの間 念じ続ける。
「はい」
「オレ。今、鹿子さんと一緒にいる」
「え?どこだって?悠人、オマエ何やってんの?こんな遅い時間、花火大会の会場じゃなく、って?」
「拓己の代わりに、鹿子さんが夜道を歩くのに付き合ってる」
「鹿子さんって、ああ、シカコさん?え?何でオレの代わり?」
おろおろした様子、拓己の声が上ずっている。
「だから拓己は責任持って母さん安心させてよ。遅くなってもちゃんと帰るから」
電話の向こうで拓己が赤くなったり青くなったりして慌てているのが解る。家族思いの心配性。
「ついでだから言うけど、借りた本はちゃんと大事に読んでから返しなよね」
「ほ、本って」
「じゃ、頼んだから」
ぶちりと切ってやった。
社交辞令で借りて、結局読まずに放りっぱなしになってるその本。部屋から持ち出して僕が読んたことも拓己は気づいてない。
「あんな電話しちゃって、拓己くん困ってたでしょ?」
「気にすること無いよ。拓己もたまにはちゃんと反省したらいいんだ」
伸びをしながらぐるりと周囲を見渡す。黒々とした山のシルエット。こんもりした森。夜の空を見上げる。雲が月を隠し、僅かに外郭がぼんやり明るい。隙間に星が瞬く。雲が流れる。雲の切れ間から月がゆっくり姿を現す。
鹿子さんの手が僕の手のすぐそばにある。指先の丸っこい五つの爪が、月の光を受けて艶やかに光った。
「線香花火」
「え?」
「今度は線香花火、一緒にしたいな」
拓己も誘って、と付け加えようかと少し迷って、やめた。

最終電車が眩い光を放ちながら、ホームに近づいて来る。

 了

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