結婚指輪を失くした話⑥


続き

吐きはしなかったが、大きくえずいた。

丈夫が取り柄で、それまで一度も病欠というものをしたことがないくらい。

特に消化器系はめちゃくちゃ丈夫で、消化器症状が出ることなど滅多にない。

来なくなった生理と突然の吐き気。

…まさか妊娠?

と一瞬だけ思ったが、こんなテキトーな夫婦生活で妊娠なんてうまい話があるわけなく。

どちらもストレスによる症状だったらしい。

ストレスで生理が止まることはよくあったが、吐き気という分かりやすい身体症状が出るのは初めてだった。

それ以来、仕事の日の朝は吐き気がした。

毎朝吐き気を抑えながら電車に乗り、病院についたらスクラブと白衣に着替えて外来に降りる。

不思議と、仕事をしている間に具合が悪くなったことはなかった。

多分、昼ご飯も魔女部長と一緒に普通に食べられていたと思う。

ただ、家でどう過ごしていたのか、ちゃんと食べられていたのか、ほとんど記憶がない。

平日の夜のことで覚えているのは、前述のメンタルヘルス対策のために掃除したお風呂にお湯を張り、膝を抱えながらぼんやりしていたことだけ。

え、旦那と一緒に暮らしていたよね?
夜一緒に夕飯食べていたよね?

というくらい、本当にすっぽり記憶が抜け落ちている。

土日に何をしていたのかも記憶がない。

土日の出来事で唯一覚えているのが、前日に入院したばかりの患者さんの顔を見に行ったこと。

そう、仕事のことしかほとんど覚えていないのだ。

週明けの昼休み、魔女部長は必ず

「週末はどう過ごしたの?」

と訊いてきたが、私はこの質問が嫌いだった。

大した回答ができないので、いつも微妙な空気になった。


いつしか、魔女部長の私に対する態度は軟化していた。

指差しと名前を覚えてもらえないのは相変わらずだったが。

仕事に慣れてくると、やらせてもらえることが増えた。

・午前の外来は、少ししたら見学から卒業し、自分の外来をやるようになった。

・専門外来は引き続き見学だけだったが、処置の一部をやらせてもらえるように。

・手術は、種類によっては部分執刀をさせてもらえるようになった。

・数多くのルーチンを覚え、雑用は一応そつなくこなせるようになった。

できること、任せてもらえることが増えると楽しい。

魔女部長から離れたい

そんな邪な理由もあったが、というよりこれがメインの理由だったと思うが、

診察も処置も雑用も、私は積極的に引き受けた。

魔女部長の態度が軟化したのは、そんな私の様子を見て多少は認めてくれたからなのかもしれない。

相変わらず手術の時は急かされたし、部分執刀や処置で叱られることもあったが、魔女部長は引きずらないタイプであることに私は気づいていた。

叱るときは叱るが、その後は普通に優しい。



という感じで、仕事(研修)自体はそれなりに順調に回るようになり、魔女部長のいいところも分かるようになり、

これにて安泰

となったかというと決してそんなことはなく。

相変わらず、ストレスはストレスだった。

そして、危機感があった。

このまま潰れてしまうのではないかという危機感。

1日でも早くこの環境から逃げないと危ない気がした。

そこでどうしたかと言うと…


実は、真面目に生きてきた私が人生で唯一ズル休みしたのがこの出向研修中だった。

1日だけ、仮病を使って休んだ。

続く

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