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赤い樂茶碗を見ていると、私はなぜかいつも、サーモンを思い出す。「茶碗が紡ぐものがたり」#樂美術館

京都でいちばんすきな美術館。いつも前を通ると、必ずあの石畳へ吸い込まれてしまう。

多くの美術館は、中に入った瞬間、下界から隔絶されたような気分になる。一歩踏み入れるときの気分は、まるで大きなあぶくの中へ、ぶるんと潜りこむ感じだ。ただ、樂美術館は、ちょっと違う。石畳を歩いて、靴を履き替え、受付を通ると、竹の椅子が並んだお休みどころのような場所があって、今の季節は瑞々しい新緑の庭が迎えてくれる。あの、「ぶるん」という固く濃密なあぶくはそこになく、水が小川を流れるように、空間に入っていく感じだ。

「樂焼き」や「手捏ね」の特徴を伝える解説――その文と写真は、簡潔に多くを語る絶妙なものである――を通れば、薄暗い第一展示室。語りたいことは山のようにあるが、語りすぎるのも分が悪い。今日は、気付いたことを一つだけ。

赤い樂茶碗を見ていると、私はなぜかいつも、サーモンを思い出す。

樂美術館に行きはじめてだいぶ経つこともあり、茶碗と再会することがある。今回もそうだ。ただ、問題は思い出し方である。タイトルでも、作者でもなく、ただ「あ、サーモン」と思い出したのである。

なぜ、赤い茶碗にサーモンを思うのか。
勿論、私が食いしん坊であることが一因なのはわかっている。
茶碗の色が、似ていることも、また一つ。
しかし、例えば日常生活で使う茶碗が、鮭色だったところで、サーモンを思うだろうか。あの、しっとりとした、艶のある橙の身を、思い出すだろうか。否、だろう。

理由をいろいろ考えてみたが、辿り着いたのは、以下の答えだ。

生き物感がある。

茶碗は茶碗でも、手びねりのぬくもりが残っていて、硬さや冷たさがない。そんなことはないだろうが、恒温動物のように、触ると温そう。そして、必ずそこには重さがあるだろう。持っているのに、持っていないような、プラスチックの腑抜けた軽さはないだろう。ふわふわに見えるのに、抱き上げるとずっしり感じさせるような、赤ちゃんの重さがあるだろう。

サーモンも、もとはと言えば川を下り上った、引き締まった肉体である。小朝食に、つややかなサーモンをいただいてエネルギーチャージをするように、樂茶碗と会うことでエネルギーをいただいていたのかもしれない。

人間と人間が向き合うとき、それはバイブレーションの交換だ、と友人に言われたことがある。私とあの茶碗も、エネルギーを交わらせていたのだろうか。

それは、ちょっといいな。

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