崎山蒼志「ビジョン」批評
先日のkhakiさんとのLiveで崎山くんが「ビジョン」を歌ったという事で、くるものがあったので少し書きたいと思う。「ビジョン」という楽曲を見つめて思ったことを書きます。
この楽曲は、反戦歌ではあるけれど、政治的な思想を感じさせない、純粋な叫びになっている。ここにこの曲の輝きがある。
反戦を考える時、私は、嘘をついているのではないかと不安になってしまう時がある。
食卓につきながら、ニュースで戦争をみて悲しくなる時など、本当に悲しくなっていたら、こんな風に生活してはいけないんじゃないだろうか、と思ってしまう。
これは、私は本当に苦しんでいる人たちと同じようには悲しめない、という点では正しい。
けれどこの歌詞で歌われているように、「何度傷つけば 僕の心は許」されるのだろうという、問いには答えられていない。
私たちが「そのままそこへ行きたい」と願うほどに、痛ましい惨状だと分かるのに、「君の声と同じ海」を「見」たいはずなのに、関われない、という痛みが確かにある。開高健のように戦争に参加したからといって、その傷みを、抱けるとも思えない。
私たちはそうしたどうにもならない自分の生に、虚しさに、「何度」も「何度」も、「何度」も「傷つ」く。
けれど、もし苦しむことが現実に置いて間違っているのだとしても、私たちは、確かにここで傷ついている。
この曲は12歳で歌っていて凄いと言われることが多い。確かに自身の感じている不安や悲しみを、このように歌え、演奏技術のある少年はそうそういない。天才とはまさにこのような事を言うのだろう。
けれども、この純粋な痛みは、むしろ12歳という年齢だからこそ、歌えたのではないだろうか。
歌詞を見ていると、ここまで他者の痛みに真摯に傷むことができるのは、子供しかいないのではないかと感じてしまう。
無垢な眼差しがあるからこそ、このように痛みの根元を歌えるのではないか。
私のお世話になっている先生が以前、「大人とはいくつになったら言えるのか?」という問いを受けてこう答えてらっしゃった。「やはり僕は、赤子だと言いたいですね。赤ちゃんが世界は間違っていると言ったら、それにうなづきたい」と。
私はこの言葉にいたく感動したのだが、このビジョンという楽曲にも、近いものを感じる。
この曲は、そのような子供のイノセントが現存しているからこそ、なんの怯みもなくすっと入ってくる楽曲になっているのではないだろうか。
「真っ白の世界が」作者の中で「見え」ているからこそ、ここで崎山は自身の、世界の、「傷」を歌うことが出来る。赤子が泣き声を言葉にしたら、きっとこのような楽曲になるんだろう。彼が技術以外のところでも天才である所以は、ここにあると思う。
「木に溜まった水」とはなんだろうか?私たちの涙の総称だろうか。積み重ねたものではないか。
この後続く「誰かの闇」や「部屋で一人ぼっちの人」を「心に入れていくためには」、私たちの涙を「溜」めておく受け皿がなければならない。その受け皿とは、作品や言葉、楽曲だ。今感じた悲しみや苦しみ、傷みを保存しておくためには、それを目に見えるかたちにしなければ、他者(あなた)に伝達することは出来ない。「木に溜まった水」とは、そのような私たちの涙をおさめたこの歌のことだと思う。
また、「誰かの闇」も「部屋の中で一人ぼっちの人も 心に入れてくからさ」と、12歳の少年が言ってくれるところに、もう大人になってしまった私は、切なくなってしまう。
この歌詞を聴いて思い出したのは、『ライ麦畑で捕まえて』でフィービーがホールディンに赤い帽子を被させてあげる場面だ。雨が降ってきたので寒くならないようにホールディンが帽子渡そうとすると、フィービーがさっとポケットから帽子を抜き出し頭に乗せてくれる。まいっちゃうと、ホールディンは思う。
「心に入れてくからさ」と言ってしまえる、無垢で1番、美しい強さに、私たちは参ってしまう。また、イノセントの象徴として、「目」も「閉じ」、「耳」も「ふさぐ」姿が胎児のイメージ
も想起させる。
赤子が胎内で外の薄い光を見るように、彼は「木漏れ日」の暖かさを目撃している。このインセントと、それを言葉にして伝えている、自我の目覚めの淡いグラデーションが、楽曲の美しさに繋がっている。
こういう曲を大人になった今歌えるというのは、かけがえのない体験であるような気がする。イノセントと、その消失、という意味合い以上に、今度はそれを守っていく、実存的な大人の姿勢を感じさせるからだ。
以前、友達の作品の批評を書いた際『ライ麦畑で捕まえて』では見守られる側から、今度はイノセントを見守る側への変異が語られていると書いた。
大人になるというのは、『自我の目覚め』に傷ついた私たちが、(これは「ソフト」の批評を書いた時に触れたのですが、、、)今度はそれを守るために歩み出していく時、立ち現れてくる姿だ。
子供や、かつて傷ついた私たち自身、その総称である「あなた」を守りたいと思う時、私たちは実存的に歩み出す。悲しみ孤独に暮れている時が、「自我の目覚め」だとするならば、『涙が涸れた』時、私たちは今度「孤独者」でなく、「単独者」になることができる。(ここら辺は、「立原道造」について論じる批評をもうすぐ書くので、その時言及したい)
しかしここで注意しておきたいのは、見守るという時、それが傍観者の視点になってはいけないという点だ。
傍観者も、「単独者」も、例外的存在という意味では似ているが全く異なった性質を持つ。単独者は守るために、自ら世界と拮抗する。
彼自身が、イノセントを引き受けるもの、行方を失った「孤独者」の帰るべき故郷になる、そのためには、一人でこの世界から、歩み去っていく必要がある。「傷つ」いた「僕の心」を「許」すために、認めるために、「単独者」として書く姿勢が求められるのだ。
こういう楽曲や人物がいることで、私たちの生は後押しされるのだと思う。けれど何よりこの「ビジョン」という楽曲に、12歳の少年の叫びが、私たちの根源的悲しみが収められているというのは、本当に、尊いことだと感じる。
こんな事をつらつら考えて書いたら、あっというまに2000字だった。
かなり深く紐解いたが、1番は健康に生きることだから、辛くなったら忘れて欲しいなとも思う。
崎山蒼志という、私にとって、実存的目覚めの人が、どのように歩んでいくのか、今後も楽しみに見ていたいなと感じた。
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