見出し画像

未次元vol.5

ひとつの倫理

私が好きな詩の一つに吉本隆明の「涙が涸れる」が、ある。

「涙が涸れる」
けふから ぼくらは泣かない
きのふまでのように もう世界は
うつくしくもなくなったから そうして
針のやうなことばをあつめて 悲惨な
出来ごとを生活の中からみつけ
つき刺す

ぼくらの生活があるかぎり 一本の針を
引出しからつかみだすように 心の傷から
ひとつの倫理を つまり
役立ちうる武器をつかみだす

しめっぽい貧民街の朽ちかかった軒端を
ひとりであるいは少女と
とほり過ぎるとき ぼくらは
残酷に ぼくらの武器を
かくしてゐる
胸のあひだからは 涙のかはりに
バラ色の私鉄の切符が
くちゃくちゃになってあらはれ
ぼくらはぼくらに または少女に
それを視せて とほくまで
ゆくんだと告げるのである

とほくまでゆくんだ ぼくらの好きな人々よ
嫉みと嫉みとをからみ合はせても
窮迫したぼくらの生活からは 名高い
恋の物語はうまれない
ぼくらはきみによって
きみはぼくらによって ただ
屈辱を組織できるだけだ
それをしなければならぬ

吉本隆明詩集より

 私はこの詩、この言葉が持っている強さがとても好きだ。吉本は「ぼくら」が「泣かない」のは「もう世界が美しくはなくなったから」だという。

 私たちは世界に裏切られたこと、もしくは、癒えない傷を持っているからこそ、泣くことによって言葉を使う。言葉を使うというのは、つまり、言わないと伝わらないから生まれた、という事で、逆説的に、使えば使うほど私たちは引き剥がされているのだというどうしようもない痛みを、気づかせてくるものだ。どうしようもない理不尽を孕んでいる。

 そういう「自我の目覚め」の前に立って私は、その現実を恨み続けたし、今でも痛み続けていると思う。

 だからいつまでも、嘆き続けてやりたい。私のこのどうしようもなく痛いのを誰かにわかって欲しいと思って、またその思いは救いにもなると思って、詩を書く。
 
 自身の抱いている哀しみに、形がないというのは悲痛なのだ。類をみない悲痛なのだ。私たちの形のない空虚な痛みは、それがあるということだけで、体を蝕んでいくような種類の毒だから。
 だから、私たちはその痛みを名付けなければならない。

 他者がその悲痛に、名前をくれるというパターンもある。私は、崎山蒼志の音楽に出会った時、その毒がスッと引いていくのを感じた。それは、他者が同じ苦しみの中に生き、その中で、形を、名前をくれたから、私は私でいてもいいと思えた「救い」だったからだ。

 だから、もし私が芸術をやるならば、芸術を信じているのならば、痛みに名前を、付けなければならない。それは私が救われたように誰かを救う事だし、私たちが救われるためにせねばならない事だから。
 「自我の目覚め」に出会い、圧倒的な空虚の前に立ち、私たちは嘆いているだけではいけない。だって、私たちはもう充分に苦しみぬいたのだから。たとえ「きのうまでのようにもう世界は美しく」「なくなっても」。なってしまったからこそ、わたしたちは 「もう泣かない」。私たちにできるのは、その「屈辱を組織」する事で、「ひとつの倫理」を、つまり、救いを、「掴」んでいく事だ。

 この詩を読むと、私が持てる「ひとつの倫理」とは何なのか、といつも考える。

 それはわたしの痛みで、「涙のかわりに」、「心の傷から ひとつの倫理を掴み出し」、私たちを救う事、「とおくまでゆく」こと、その先だってまだある。

 ある人にとって、それは、誰かを傷つける愛なのかもしれない。狂気なのかもしれない。

 私は考える。

 私が手にしていく「倫理」とは何なのか。私が信じていく「倫理」とは何なのか。
 わたしたちは「関係性」の上にのみ立っていて、だからそれを引き受けながら、生きていかなければいけない。

 私はどうやって生きていくのか、、、。

この記事が参加している募集

一度は行きたいあの場所

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?