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人と人との関係は壮絶だ。『栄花物語(山本周五郎)』感想

山本周五郎の全集の、タイトルだけを見て読み始めた作品です。華やかなお話かと思ったら、全くの勘違いでした。いやはや。

江戸時代の武士や町民や花魁の生活を中心に、老中田沼意次の主観をも組み入れて壮大な群像劇と成した、そんな作品でした。


田沼意次は、歴史で習った時もあまり良い印象ではなかったように思います。この作品でも、市井では商人への課税を増やすなどして恨まれていましたが、意次自身は、幕府が商人たちの繁栄とともに衰えはじめていることを嘆き、すべてに恨まれる覚悟をもって数々の政策を打ち立て、力強く邁進していきます。

しかし、意次がメインに描かれている訳ではなく、戯作家である信二郎と武士の保之助という友人関係や、二人に関わる「その子」という無垢で放埓で淫蕩にみちた女、不法に金を取立てる役人へ殴りかかって逃げることになった男、その妻と子、意次に健気な思いを寄せ、命を張ってまで守ろうとした側室のお滝などなど、さまざまな人間模様が繰り広げられていました。

保之助は、妻となった「その子」の不貞を見咎めるも、意次の暗殺に参与しなかったことで、身分的にも家庭内でも自らの立場が危うくなり、次第に落ちぶれていきます。そんな中、藤扇という花魁と懇意になりますが、買い受ける金もなく、二人はただ夜逃げして心中してしまいます。

当初、反田沼派に頼まれ、意次の悪評をでっち上げる落首を書いた信二郎は、何ものかに縛られることを嫌って自由に生きていました。
しかし、見捨ててきた内縁の妻が追いかけてきたり、気紛れに書いた作品が大ヒットしてしまって絶版を申し出たり、かつての恋人「その子」から鬼気迫る恋文をもらったり、保之助が助けた男の行く末を見ることになったり、などのさまざまな出来事があったあと、出頭する前に「その子」と待ち合わせた店へ行こう、と足を向けたところで物語が終わります。
名も知らぬ二人の男がつけてきていることに、気づかないまま。

中盤では、田沼意次の孤独と覚悟、幕府政治崩壊の危機感による商人への敵意が、とつとつと述べられています。また彼は、市井で噂されていたような華美な生活ではなく、極端に質素であったことなど、かなり丁寧に描写されていて人間らしさを感じました。

「人間とは」「人生とは」「生きていることとは」という問答が、作中で繰り返し交わされています。
信二郎と保之助との間で、意次の自問自答で、あるいは引手茶屋の二階、開け放した窓の前で。
完全な答えは出ません。その都度の立場で、面白いように変わります。

どんなに論理的に正しいことでも、画期的な政策でも、実直すぎるほどにことを成し遂げ続けたばかりに、意次は失墜します。
事実、意次がしいた課税の高さで、職を失い路頭に迷った庶民があまりにも多く、そのために人々の反感を買ったのだろうと思われます。

信二郎が書いた「田沼意次がやたらと賄賂を取立てる」という嘘の話を真に受けて、意次へ取り入ろうとした男がいました。
その男は、意次への賄賂や取り成しの依頼を拒否し続けられたことに激怒して、意次の息子である意知を斬り、その傷が元で息子は死んでしまいます。
しかし世の中は、意次に同情せず、むしろ息子の葬列へ石を投げたといいます。この話を聞いて意次は、初めて涙を流しました。自身がなんと言われようと覚悟はし、それだけのことをしてきたが、息子までもが恨まれるとは、と。

人とは、人とは、と問い続けながら読みました。
あるひとつの罪に対し、誰か一人が責めを負うのは、果たして正しいことなのでしょうか。もちろん、罪に対し裁かれるべき被告がいることは、法治国家では当然のことです。
そうではなくて、人間は、人間とかかわりあうことでしか生きて行けないのだから、その罪がうまれるに至った事象が、さまざまな人間の介在によって、確かに存在しているはず。

誰しもが無意識のうちに、人とかかわることによって、罪を内在している。それはなんて、なんて壮絶なことだろうか。

そんな風に、身にしみて感じました。

ここまでの長編を、一気に読み終えることが出来た、圧倒的な構成力、文章力に脱帽です。
山本周五郎氏に、心からの謝意を述べさせて頂きます。

Photo by Alex Blăjan on Unsplash

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