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肉屋が考えるヴィーガン問題

私は肉屋で、肉に関するYouTubeチャンネルをやる程の肉好きです。しかしながら、いわゆるヴィーガン問題にも関心があります。人間はこれからも今までと同じように肉を食べていていいのか、について肉を食べる全ての人がもっと深く考えなければならないと思っています。

そう考えるようになったきっかけは、肉屋で毎日出る廃棄です。私の働く店はカナダの片田舎の小さな店ですが、それでも1日に数キロから十数キロの廃棄肉が出てしまいます。廃棄理由は売れる前に賞味期限が来てしまうのが大半で、その次に肉の色が変色したりパッケージが破れていたりして売り物にならない場合。稀に冷蔵庫が壊れたり、気づかずに室温に放置されていたりして、安全性の問題から廃棄することもあります。また商品のパッケージに不備があり、例えば賞味期限が明記されていない等の理由から廃棄せざるを得ない場合もあります。

そういう廃棄肉を毎日見ていたら、本当にこれでいいのかな、と思うようになりました。人間の都合によって産まれて育てられて殺されて、その後食べられもせずに捨てられていく、というのはどう考えてもおかしい。私の店の廃棄肉は冷凍されて地元のフードバンクを経由して食べ物が必要な人達に寄付されます。しかし、世の中の全ての肉屋がそういう廃棄処理をしているとは思いません。また、廃棄が出る前提で食肉産業が成り立っている事自体がおかしいのではないか、とも思います。

世界の廃棄肉の量

オランダのライデン大学の研究者らが行った調査によると、2018年に世界中で殺された750億頭の家畜、豚、鶏、七面鳥、牛、ヤギ、羊のうち180億頭が食べられていなかったという事です。


廃棄の理由は様々で、小売店やレストランでの廃棄、農場から屠殺場へ向かう移送の途中で死んだための廃棄(鶏肉に多い。屠殺場に来る前に死んだ動物は安全基準を満たしていないので食用にはできない)等。あまりにも大きい数字なのでピンとこないですが、簡単に無視できる数字でない事は確かです。世界の人口は80億人くらいですから、その2倍以上の家畜を殺して食べないという事です。

人間は動物の命を無駄にしている

消費主義が道徳を上回っているのだと思います。消費者は新鮮で安全で美味しくて安い肉を求めます。供給者はそれに答えるために企業努力として毎日新鮮な肉を店に並べ、傷んだら廃棄するという事を繰り返しています。小売だけでなく、生産プロセスでも、安く売るため、コスト削減のために、ケージ飼育のように狭い場所にぎゅうぎゅうに詰めて飼育したり、競りにかけられない規格外の肉を廃棄処分にしたりします。

また育てる人、屠殺する人、流通させる人、売る人、全て違う人、団体が行うのが当たり前です。そうなると、動物の命に対する責任感が薄れていくのは当然だと思います。同じ動物の命を扱う仕事である、犬のブリーダーを考えてみます。カナダでは繁殖から実際に売るまでのプロセスを一人のブリーダーが全て担うのが当たり前です。ペットショップには犬や猫は売っていません。個人のブリーダーが売る相手を厳しく審査して、アフターケアまで責任を取ることで、動物の命を尊重しようとしているのです。それに比べると、食肉産業はあまりにも動物の命を軽視していると感じます。

食肉産業は動物の命<金です。私も含め、働いている一人ひとりは、動物の命を大切にしたいという思いは持っていると思います。でも、食肉産業の構造自体が命よりも金を優先している限り、この現状を変えることはできないのではないでしょうか。

廃棄肉をもっと減らすことは可能です。例えば冷凍肉を流通の基本とする事で、賞味期限の問題は大幅に改善できます。しかし、冷凍肉はやはり生に比べて味が落ちますし、料理の手間も増えます。また冷蔵に比べてエネルギーを使うので地球環境には悪いです。

また屠畜場への輸送時に死んでしまう鶏に関しても、もっとケージにいれる鶏の数を減らすとか、鶏の体調を管理して健康な個体のみ出荷するとか、いろいろ対応策が考えられます。しかしその分コストがかかる事が予想できます。消費主義の観点からすると、ネガティブな考えです。家畜の命<金という考えがベースの現在の食肉産業では難しいです。

だから廃棄が出るのは想定の上で、その廃棄肉をどう有効活用するか、という方向に動いています。例えば、フードバンクへの寄付や、バイオ肥料への加工、また廃棄肉を嫌気発酵してメタンガスを生成してエネルギーとして利用するなどの取り組みが行われています。でもそれは、あくまで動物の命を無駄にしている、という罪悪感を打ち消す為の試みであり、そもそもの廃棄を無くす事を考える方がずっと大事なのではないかと私は思います。

肉屋になって、そういう事を考えるようになってからヴィーガン活動家の人達の話を冷静になって聞いてみると、彼らの主張は筋が通っているなと思うようになりました。実は肉屋になる前は、ヴィーガンなんてなんかイタい人達だとしか思ってなかったんです。肉屋になって私の価値観ははっきりと変わりました。

何故かこういった問題は、日本のメディアや教育の場で取り上げられる事が殆どありません。なので日本人の多くは問題意識がありません。動物の命を無駄にせず、頂きますの精神で感謝して残さず食べます、という程度の事しか考えていません。

ヴィーガン活動家に対する反論に対する反論

ここからは、ヴィーガン活動家に対してよく言われる事について一つずつ考えてみます。YouTube動画でヴィーガン活動家が取り上げられると、コメント欄でいろいろな反論が読めます。私はヴィーガンではない、という立場を明記した上で、そういう反論に対して逆に反論してみたいと思います。

いただきますの精神

私達日本人はいただきますの精神で、動物の命に感謝して残さず食べるから大丈夫だ、というような反論が頻繁に見受けられます。私はこの「いただきます」の精神は、肉食に対する罪悪感を打ち消す為に発明された便利な言葉だと思っています。

そもそもの「いただきます」には、動物の命への感謝、という意味はありませんでした。

あくまで、料理を作ってくれた人への感謝、またお供え物を頂くという意味での、神様への感謝という意味しかありませんでした。動物への命の感謝、という意味が含まれるようになったのは1990年くらいからということです。

これはあくまで私の推測ですが、1970-1990年代に、日本はかなりのスピードで経済成長して、飽食の時代となりました。食べ物が余るようになると、自ずと犠牲になった動物への罪悪感が生まれます。動物を食べる必然性が減るからです。その罪悪感を軽減するために、「いただきます」には動物の命への感謝という意味がある、という考えが発明されたのではないかと思います。「いただきます」と一言唱えれば、罪悪感なく美味しく肉を食べられるのですから便利です。

しかしながら、動物は食べられたいとは絶対に思っていない筈です。アフリカの動物のドキュメンタリー等で、チーターに追いかけられて死にものぐるいで逃げ回る鹿を見たことがあると思います。食べられる動物にとって、「相手が自分の命に感謝しているかどうか」なんて関係ない筈です。つまり、「いただきます」とはあくまで食べる人自身を納得させる為の言葉であって、それ故に動物を大切に思っていると考えるのはわがままだと思います。

「いただきます」の精神を重んじて、自分は動物の命は無駄にしない、と思っているなら、食卓に上がることなく無駄に殺された180億匹の動物の命について考えてみるべきだと思います。「いただきます」はあくまで目の前の皿の上に乗っている肉が対象です。殺されたのに皿の上にすら乗らなかった動物の魂はどうなるのでしょうか。自分がやったのではないから関係ないのでしょうか。消費者も食肉産業を支えている一人なわけですから、食肉産業の問題は肉を食べる人全てに責任があると私は思います。

生きる為に肉を食べるのは虐待ではない。野生動物も同じ事をしている。

生命活動の為に命を頂くのだから虐待ではない、というような反論も見受けられます。そして野生動物を引き合いに出して、動物も同じことをしているだろ、と言う人がいます。現代で、肉を食べないと生命活動が維持できない人が果たしてどれくらいいるでしょうか。動物の命を犠牲にせずに必要な栄養素を取ることは完全に可能です。動物性タンパク質を取らないせいで体調不良になった人がいる、という話を持ち出す人がいますが、動物性タンパク質が必要なら卵や乳製品から十分に得られます。わざわざ動物の命を犠牲にする必然性はありません(卵は無精卵なら生命は宿っていません)。つまり、現代人は殆どの場合、快楽の為に肉を食べているのです。これは虐待だと思いませんか?

野生動物は違います。ライオンは肉しか食べられないから肉を食べるのです。人間と単純に比較するべきではないと思います。いただきますの精神も、どうしてもそれを食べないと自分が死んでしまう、というような場合であれば納得できますが、現代に置いてそんな状況に陥る事はあまり無いですよね。

肉を食べないと体に不調が出る

日本語で「ヴィーガン 健康状態」で調べるとこちらのページが一番に出てきます。

ヴィーガン食をやめて肉を食べ始めたら、体調がどんどん良くなった、というような事が書かれています。

ヴィーガン系の動画等でよく見る、動物性タンパク質をとらないと健康被害がでる、と主張する人の多くはこの手の記事を読んでいるのではないかなと思います。実際にそういう人がいるのは事実です。何も考えずにただ肉を食べるのを止めるだけでは必要な栄養素を得ることができず、健康被害が出てしまいます。しかし、肉を食べないことで足りなくなる栄養素は何か、をちゃんと理解して、それを補うような食事をすれば、人間は問題なく生きていけます。

完全なヴィーガン生活では、肉に多く含まれるビタミンB12等が不足してしまうことがわかっています。なのでサプリメント等で補う必要があります。完全なヴィーガンではなく、乳製品は食べるベジタリアンの場合、ビタミンB12は乳製品から補う事ができます。インドでは、宗教的な理由でベジタリアンの人が多いですが、乳製品をたくさん食べるので、みな問題なく健康に生きています。こういった事を考えずに「肉を食べないと健康被害が出る」と思い込んでいる人が多いと思います。

「人間は肉を食べないと生きていけない」と思いたいのです。だからその証拠を見つけると、「これからも肉を食べていていいんだ」と安心できるのです。そして、その証拠の整合性は考えずに、ヴィーガンを攻撃する材料として使うのです。インド人の多くも、高野山で修行をしているお坊さんも、肉は一切食べずに健康に生きています。


化粧品の実験や医療実験でも動物は犠牲になっている。ヴィーガンを押し付けるならお前達も薬や化粧品は使うな

まず化粧品についてですが、先進国では動物実験を禁止している国が多くあります。EU、カナダ、オーストラリア、韓国等。日本はまだ禁止にはなっていませんが、動物実験をしていない、例えば韓国のコスメブランドは簡単に買う事ができます。なので、化粧品=動物虐待とするのは誤りです。

動物愛護団体PETAのメンバーでヴィーガン活動家の今井レイラがメディアに出てくると、動物実験で作られた化粧品を使っているくせに、というような反論が数多く出てきます。なぜ化粧品=動物実験という誤った情報が広まったのか、おそらくその原因はひろゆきだと思います。

この動画でひろゆきは、化粧品は動物実験で作られていると言っています。残念ながら、彼は化粧品の動物実験を禁止している国がたくさんある、という知識はありませんでした。

またヴィーガンが自分の使っているものに動物由来のものが無いようにどれだけ気を使っているか、という事も知らないようです。私は食品産業で働いているから知っています。熱心なヴィーガンの人は、わからない場合この食べ物には動物由来の製品が入っていますか? と聞いています。意外なものにも動物由来のものが入っているのを知っているからです(例えばゼリーに使うゼラチンは動物から作られます)。もちろん本革の靴やベルトを身につける事もありません。そういう事が考えられないほどヴィーガンは阿呆ではありません。

医療実験では、確かに動物実験が必要です。ヴィーガンの中には動物実験にも反対している人もいて、そういう人達は薬も飲まない場合もありますが、全てのヴィーガンがそういう生活をしているわけではありません。理解しないといけないのは、全てのヴィーガンが動物を絶対に殺してはいけない、と考えているわけではない、という事です。インドのジャイナ教とは違い、ヴィーガンの哲学の根幹は不殺生ではありません。なるべく犠牲を減らしたい、選べるなら動物を虐待しない方法を選びたい、が真意だと思います。

新しい薬を作るのに動物実験が必要不可欠なら、仕方がないのかもしれません。しかし食べ物に関しては、わざわざ動物の命を犠牲にしなくたって健康に生きられる時代なのです。食べ物が限られていた昔とはもう違います。だからもう肉を食べるのはやめようよ、と主張しているのです。

なるべくなら犠牲を減らしたい、という考えはいたって普通の感情だと思いませんか?

植物を食べるのは虐待ではないのか

ヴィーガンも植物を食べるだろ、お前たちだって植物虐待しているだろ、っていうやつですね。ヴィーガンヘイターは何故か動物植物生命平等論みたいなものを持ち出してヴィーガンを攻撃しています。

そもそも、ほとんどの人間は動物と植物を全く同じようには扱っていません。飼ってるペットが死んだ時と、家の庭の花や木が枯れた時で同じくらいショックを受ける人はいません。普通はペットの方が悲しい筈です。だからペットロス、という言葉はあっても、花ロスや木ロスという言葉はないわけです。動物愛護法は世界中にありますが、植物愛護法はどこにもありません。つまり人間はそもそも動物と植物を区別しているのです。何故ヴィーガンに対してのみ、動物と植物を同等に扱うことを求めるのでしょうか。

また植物は虐待しても構わないなんて、ヴィーガンは差別主義者なんですね、と嫌味を言う人もいます。でもそういう人だって動物だったら何でも食べるわけではないはずです。ペットの犬猫を食べる人はいません。同じ動物でも食べる食べないを区別している人が、ヴィーガンを差別主義者と呼ぶことはできません。

また植物にも痛みや意識がある、という話を持ち出す人もいます。植物には脳も痛みを伝える神経組織もないので、痛みを感じることは絶対にありません。ただ虫などに食べられたときに外傷を別の部分に伝えるような仕組みはある事はわかっています。しかしながら、それを動物の痛みと同等と捉えるのはトンデモ科学や妄信です。

ヴィーガンヘイターは、ヴィーガンは植物を虐待している、という主張をすることで、自分達の動物への虐待を正当化しようとしているのです。

家畜とペットは違う

何故犬猫は大事にするのに家畜の事はどうでもいいのか、と言う話になった時、家畜はペットとは違うだろ、って言う人がいます。何故でしょうか。実際に農場で飼われている牛や豚や鶏を見てみれば、生きている家畜と犬や猫を区別するものは何も無いということがわかるはずです。どちらもただの動物です。しかし、実際に生きている牛や豚や鶏を見たり接したりする事が少ないから気づかないのです。

なぜ家畜は無駄に殺しても大丈夫で、犬や猫は動物愛護法で法的に尊重されているのでしょうか。ここには明らかな矛盾があるのですが、肉を食べる人はこの矛盾を慣習に従って無視しているのだと思います。ヴィーガンは、家畜も犬猫も動物という点で全く同じだから同じように尊重するべきである、と言っているのであり、この点ではヴィーガンの方が筋が通っていると言えると思います。

これからのヴィーガン

業界調査によると、2021年と2022年でアメリカのヴィーガン、ベジタリアン系の食品産業は1.5倍の成長率を見せています。私も実感として、そういう商品のバラエティーも、そして買っていくお客さんも増えていると思います。買っていく人は若い人から年配の方まで様々です。

大人になってからヴィーガン生活を始める人も増えています。今まで生活を変えるのは大人になればなるほど難しいと思います。私はこうやってヴィーガンを支持する考えを示しながら、やっぱり肉が好きでヴィーガン生活に切り替える決断はできません。それは私が弱いから、踏ん切りがつかないからであり、その迷いに打ち勝ってヴィーガンになった人を私は尊敬しています。ヴィーガン系の動画では、ヴィーガンを叩く人がとても多いのですが、習慣によって培われた自分の価値観や道徳が他人によって壊されるのを恐れているのではないかなと感じます。

人間はいつか肉を全く食べなくなる

アーサー C クラークの「2001年宇宙の旅」の完結編である「3001年終局への旅」で、3001年の人々は肉を全く食べない、という描写があります。私は今後100年くらいでそうなる可能性もあるのではないかなと考えています。もかしたら、肉を食べる人が少数派になるような時代はもうすぐそこまで来てるのかもしれない、とも思いますそれくらい、ヴィーガン業界は成長しています。


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