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パートナーシップ①

プロローグ

「10年後の自分を想像して、住みたい家を不動産広告から選んで、持ってきてください」
っていう宿題が出た。
16歳の私は
“結婚して、離婚して、小さな子ども2人と住む”
設定で、駅からやや距離はあるが、幼稚園や学校が近く、家賃も手頃な2LDKの賃貸物件を選んで持っていった。
赤の他人とパートナーシップを上手く築く未来なんて、想像できなかった。

結婚・出産・育児への気持の変化

それから10年、当時の予想を裏切り、結婚する予定もない私は、生理不順で産婦人科の診療を受けた。
そんな私に、産婦人科医は
「君はね、子どもができたかじゃなくて、子どもができないことを心配しなさい。ホルモンバランス、お爺さんだよ」
と言い、漢方薬を処方した。
それから、出血が止まらなくなり、私は漢方薬も産婦人科通いもやめた。
ちなみに、この産婦人科病院は吉祥寺のM病院で、その後医療過誤で訴えられ、潰れた。

“結婚”“出産”したいという思いが強かったのは、思い返せば20代後半〜30歳までだったように思う。
ビシュケクにできた日本料理屋で、同い年の友人と深夜まで三十路会を開き、呑んだくれては
「結婚したい!」
「子どもほしい!」
と、叫んでた気がする。

帰国後、これからの30代の人生を考えたとき、あの産婦人科医の言葉が現実味をおびてくる。
当時の彼(現夫)には妊娠しにくいかもしれないことは事前に伝えてあったため、いつか不妊治療をしたくなったり、養子を取りたくなったりするかもしれないが、当面は2人で暮らしていくことを考えようと結論を出していた。
ただ、帰国後、結婚を考えたときに困ったことは、彼が無職であったこと。
幸い、私は帰国後すぐに仕事が決まったので「年内(帰国時点で8月末)に仕事が決まらなければ、結婚の話はなし」ということにした。

このとき、私は帰国して海外生活とのギャップを感じ、親を納得させるため、1年くらい婚活して「ほら、やっぱり結婚できなさそう!」ということで、再び海外で生活するのも良いな……と考えていた。
その選択は、国内で結婚・出産するよりも魅力的に思えた。

そして、そんな妄想も虚しく、彼は年内に仕事を決め、結婚が現実味をおびてくる。

同じ頃、4歳下の弟①が結婚式を決めた。次の6月だと言う。
この結婚式に彼を同席させるなら、6月までに入籍するように、との新たなミッションが課せられた。
何度思い返しても、ここが人生の分岐点だったように思う。

半年で、両家への挨拶、両家顔合わせ、結納……と、やるべきことを粛々と進めた。
そして、無事弟①の結婚式前に入籍した。
夫の両親は、結婚式前に入籍することに難色を示した。また、結婚式後に予定していた2人暮らしについては、入籍後は2人で暮らすことを強く勧められ、結局こちらは夫両親に従うことになった。
どちらの親にも、子どもの話はしなかった。

新婚生活

思えば、私たちは“子どもができなかったときのこと”はよく話し合って結婚したものの“子どもができたときのこと”については、ほとんど話さなかった。
そのため、新居は新築物件が売りの、駅からやや離れた子どもとは暮らしにくそうな壁の薄いアパートだった。

夫は、駅から徒歩3分の実家や徒歩5分の学生アパート暮らしが長く、駅からの遠さに辟易していた。
さらに、隣に越してきた家族連れの子どもたちが毎日うるさいと、壁の薄さにも不満があったようだ。

私は、駅から自転車で20分、バス停なしの陸の孤島(実際は谷底の村)のような僻地が実家で、ビシュケクでも徒歩10分程の職場に通っていたため、歩くのも、駅までの自転車(5分)も苦にならない。
場合によっては、通勤ラッシュの空港で寝ることもあり“どこででも寝られる”という特技もある。

何もかもが違う環境で育ってきた私達夫婦の共通点は
“母親が専業主婦家庭で育った”
ということだった。
そして、共働きだから生活費は折半としたものの、家事全般は、暗黙の了解の元、私の役目になった。

公務員で職場も電車一本、ほとんど残業がない夫
vs
電車を乗り換えて大阪市内まで出勤する必要があるベンチャー企業で、ほぼ毎日無給残業の私

最寄駅から家までの間のスーパーは夜12時まで営業しており、食材の買い出しも私の役目だった。
夜10時にスーパーに寄り、家に帰ると、洗濯も取り入れず、お風呂にお湯も溜めず(ボタンひとつなのに)リビングのソファにどっかり座った夫がいた。
私は、買い出した食材を冷蔵庫に入れ、風呂にお湯を張り、洗濯物を取り込んで、夕食の支度をしながら洗濯物を畳んだ。
夫は、ため息をつきながら私が入れた(正確にはボタンを押した)風呂に入り、畳んであった洗濯物の畳み方に文句を言いながら、その下着や服を身に着けた。畳む必要あった??

これは、夫の実家に行って驚いたことだが、夫の父は、何もしない人だった。
私たちが結婚したときには既に70歳を越えており、引退してずっと家にいた義父だが、お湯も沸かせない。黙っていてもお茶が出てきて、使ったティッシュも誰か(たいていは義母)がいつの間にか捨ててくれる。立ち上がるのは、犬の散歩か自分のトイレのみ。

私の父は、当時50代でまだ現役で働いているが、休日には畑仕事や昼食の準備、洗濯物の取込程度はやっていたので、なかなか驚く光景だった。

夫はひとり暮らし歴も長く、もちろんひと通りの家事はできるはずだが、やらなかった。たぶん、人と暮らすということは、自分は家事をやらなくても良いということなんだろう。

転機

そんな生活が、3ヶ月程度過ぎた頃、アクシデントは起こった。

その日、私は、翌日からの東京出張に向け、出荷品やプレゼン資料の整理などに追われていた。
4日後の週末に結婚式を控えた日だった。
昼前にケイタイが鳴った。
夫の同僚と名乗る人からだった。

この電話が、私たちのパートナーシップを試すことになる。そして、私たちの生活は大きく変わり、パートナーシップを再構築することになる。

〜つづく〜

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