修行する意味と目的
修行とは理不尽なことでも受け入れること
立川志らく
今から話す「修行」とは下記の①②③の内容等ではございません。
①山にこもる
②滝に打たれる
③亀仙人の甲羅を背負って牛乳配達する
例えば、将来起業してコーヒースタンド店をOPENさせたい若者が、自身が理想とするお店で働いていたとする。
コーヒーの基本はペーパーハンドドリップから始める。
ドリッパーにフィルターを設置し、挽いた豆を平らに乗せてお湯を注ぐ。
「のの字を描くようにお湯を淹れるんだ」と店長に教えられたとし、その通りにした後に
「はぁ?違うだろう!螺旋階段のように淹れろと言っただろうが!」と激怒されたとする。
確かのの字って言ったよなぁ、そもそも のの字と螺旋階段、どう違いがあるんだよ・・・
煮え切らない、うまく消化できないことだってあるでしょう。
だが、将来このコーヒー店のようなショップをOPENさせたいのであれば「理不尽」にも耐えなければならない瞬間もあるのではないだろうか。
度が過ぎていなければ。
これが「修行」というものであろうと思う。
ちなみに私はコーヒー店のスタッフではない。
これには明確な「目的」がなければ耐えることができない。
仕事は食っていくための手段(ライスワーク)としか捉えていない人では
「次は鳴門海峡のように淹れろって言う気か?この犬野郎」と逆切れし、その後店長の怒りを買い、2階級特進してしまうだろう。
明確な「目的」と自身がこの仕事を「ライフワーク」と思えることができれば、「理不尽」というものを受け流すことができるだろう、メイビー。
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