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「ラブセメタリー」一週間悩んで得たものは

ここ一週間くらい、一冊の本について考えています。


木原音瀬このはら なりせ著「ラブセメタリー」

モヤモヤと、なかなか答えが出ない。この作品で、作者が伝えたかったのは何だったのだろう。

この作品を一言だけで説明するなら「小児性愛者の話」。
「ロリコン」「ショタコン」といったエンタメ的な記号ではなく、もっとリアルで 自分の身近にも居るかもしれない人たちの話です。

連作短編集になっていて、対照的な二人の小児性愛者が登場します。

ひとりは百貨店の外商で、"人生勝ち組"な風情の男、久瀬。
もうひとりは元小学校教師で、晩年をホームレスとして過ごした男、森下。

久瀬は、「幼い男の子しか愛せない」こと以外は完璧であると自負していて、絶対に犯罪者になるようなことはしないと心に決めています。
好きな人と触れあうことは、絶対にできない。でも性欲は無くならない。いつか妄想を実行してしまうのではと恐怖する日々を「地獄」だと彼は言います。

「性欲をなくす治療をしてほしい」と久瀬が精神科のクリニックを受診するところから物語は始まるのですが、そこの医師の
「犯罪とされる行為に走らない限り、子供を好きでいることは犯罪ではない」
という言葉が印象的でした。

わたしたちは「小児性愛者」と聞けば「子供への悪戯」と結び付けて考えがちです。
でも実際は、「欲求」と「実行」のあいだにはハードルがあるはずで、その高さは人によって違うのだと思います。
だからもし、子供に手を出す者がいたとしたら、責められるべきは「子供に欲情すること」ではなく「ハードルを飛び越えたこと」もしくは「ハードルが低いこと」なのではないか、
…というのが、わたしがクリニックのシーンから得た気付きです。
「作者が伝えたかったこと」も、ひとつはこれだと思いました。

でも、ここはまだ短編三本のうちの一本目。しかも途中。
この先を読み進めたとき、待っていたのは 出口のみえない迷路でした。
こいつは善なのか悪なのか?どうすればよかった?悪いのは誰か?……しまいには、自分の立ち位置すら判らなくなりました。

一番混乱したのは、森下の あるシーン。
森下というのは、昔小学校教師だったが 色々あって今はホームレス。その過程で心のハードルはどんどん低くなり、今や更地になってしまったような男。はっきり言ってクソ野郎です。

その森下が、あるシーンで少年を性的に乱暴した(そこに至る経緯は敢えて省きます。)のですが、問題はそれを読んだときの わたしの心情です。

「胸のすく思い」がしたのです。
もちろん、森下がしたのは法的に真っ黒で許されない行為であることも、少年が傷ついたことも頭では理解しています。
でも 心のうちは、森下への怒りは湧かなかったし、少年のことをかわいそうとも思いませんでした。

それまでわたしは、自分と森下の間には高い壁もしくは大河があると思っていて、わたしはこちら側から「森下クソ野郎」と糾弾しているはずでした。
でも いつの間にか大河は干上がり、気付けば森下と同じ側に足を踏み入れていたのです。
わたしは、自分の立ち位置を見失いました。


この本は、恐ろしい本です。
登場人物の誰ひとり(読者すら)、無傷でいられない。

登場人物に寄り添おうとしたら手酷く振り払われ、軽蔑していたものには引きずり込まれそうになる。
文章は淡々としているのに、読者の心は乱気流に揉まれてぐちゃぐちゃ。
読み終わった後も、しばらく悶々と考え込むことになります。

「この話はいったい何だったんだ」
「作者の伝えたいことは」
一週間悩んだ結果、「もしや」と思える出口、答えに「一応」たどり着きました。
はじめは その答えをここに記そうと思ったのですが、それも野暮なのでやめておきます。

もし、この作品に興味を持たれた方がいたら、是非 読んでみてください。
そして 読んだときに自分が何を感じ どう思ったのか、心の声に耳を傾けてみてください。
楽しい読書体験にはならないと思います。
でも、もしかしたら「この世を生きるために大切な何か」に気付かされるかも…しれません。



木原音瀬(このはらなりせ)著
「ラブセメタリー」
でした。

(文庫版が出ているので、そちらがオススメです。巻末の解説も、この本を考える上で助けになりました。)


【6月27日 追記】

「答え」は人それぞれのものだから
わたしの「答え」はここに書きません (キリッ
…と思ったのですが、やっぱり書きますね。

今のままだと、森下と少年のシーンについて「少年が乱暴されてて興奮しました」というふうに捉えられなくもない?と思ったので。
中途半端にぼかしたので真意の伝わりにくい文章になっていたと思います。

わたしが見つけた「作者が伝えたかったこと」の答えは、

「人は、善悪の判断を主観でしかできない」
というものでした。

もともとは、エピローグを読んだときに
「人が幸せかどうかなんて本人の主観でしか判断できないよね」と思って。
(エピローグには、ひとりの男が別の男を「あいつ 幸せでいいよなぁ」と ひたすら羨む描写があります。)

読後 悶々と考える過程でふと思ったのです。
これは「善か悪か」「正義か悪者か」の判断にも言えるのではないか。

言い換えれば「許せるか、許せないか」。
世の中には「法的にはセーフだけど許せないこと」「法的にはアウトだけど許してしまうこと」ありますよね。
ときには、同じ出来事で「許さない人」「許す人」が別れることもある。
これは「許す」「許さない」が主観だからで、その判断はその人の立場や与えられた情報によって変わり得ます。

作者も、「少年に不利な情報」を読者に与えた上で 森下の乱暴のシーンを書くことで、
「法的に真っ黒なのに読者の心はスカッとしてしまう」という善悪の逆転現象を意図的に起こしたのではないか。

それによって
「所詮 人間は善悪を 主観でしか判断できないんですよ」
と言いたかったのではないか。

(作者の意図の本当のところはわからないので、間違っているかもしれないですが、
そう考えたら 心のモヤモヤが少し晴れました。)

…というのが、わたしが一週間悩んで得たものでした。

判断基準が主観であるならば、
この世には「絶対の善」も「絶対の悪」も存在し得ないのでは、とも思いました。
世の中が不安定な今、心に留めておきたい考え方だと思います。

追記が思ったより長くなりましたが、
最後まで お付き合いいただき ありがとうございます。



(実は、これの続編にあたるものが同人誌で出ています。「unknownの柩」というタイトルです。コミコミスタジオの通販で買えますので興味のある方はお調べ下さい。)

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