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ISTP閑話 #5

明けましておめでとう、2024年。


■2024年という近未来的響き

もう2024年だって。おかしいな…昨日くらいはまだ2018年くらいだったはずなんだけど(?)

みなさんはいかがお過ごしでしょうか。
何だかよく分からないまま続けているnoteもいつの間にか何年か経ってしまったらしいですよ。それもこれもそこら辺に居そうな一般人が適当に書いてる文章を読んでくれる人が居てくれるおかげですね。本当にありがたい話です(?)。

という社交辞令はさておき、自分は正月はほとんど家で過ごしました。
ずっと思っていることだけど、正月ってどこもお休みだから行く場所無いなと。社会規模で一斉に休みになるから、正月でも空いてるような場所は人が混んでいて疲れるしで。

社会的には土日休みの人が多いと思うんだが、もう少し上手い具合に休日という概念を分散できたら店や電車の混雑を減らせると思うんだがな。
仕事!学校!は平日で、休みは土日!で全員で揃えてしまうから、色々と不都合も多いんじゃないかと思うんだけど、この概念っていつからそうなんだろうね。

多分、誰かがそう決めたというより、環境的な問題や社会的に横にスケジュールを揃えた方が楽だよねという概念で始まったような気がしているけど、実際どうなんだろう。
誰か教えて!えらい人!

それで、話を戻して2024年ってどこか近未来的だよなという話をひとつ。
調べてみたらドラえもんが22世紀から来たという設定らしいんだが、22世紀は2101年1月1日 – 2200年12月31日を指すらしく、ざっと計算しても100年以内なのだから近未来だな…としみじみ。

正直なところ、2020年の時点で「それ未来の話?」とすら思っていたくらい、2015年~2020年の間の記憶がほとんどない。たぶん生きるのに必死過ぎた。

実は毎年目標も立てなければ、おせちも食わなければ初詣にも行かないタイプの人間なんだが、それもあってか年越しの概念が薄い。
それでも何故か年越しそばとお雑煮は食べるんだからよく分からないよな。今年はせいぜいお正月のみかんを食べたから、一歩前進したということでOK…だぞ!(?)。

■J型とP型の違いは谷より深い

ぼちぼち仕事をしながら思ったことを一つ。

ネットで調べるとこの手の話題は割と出てくるのだが、J型からP型は子供っぽく見えるとかなんとかという話がある。
実際そうだよ(実際そうだよ)。

逆に反対意見があれば聞きたいんだが、客観性を重視するJ型から見て主観的などうのこうのを優先するP型が子供っぽく映らないわけがないだろ!!!とP型は思うわけだ。

話していれば分かるんだが、J型は常にその場の流れや全体の意思を優先するから、J型が多いグループや人間関係では常にまとまりがあるし、反対にP型が多ければ大抵の会話はしっちゃかめっちゃかだ。

特にTJ型の安心感と一貫性は異常だ。もう…アレだ、この人は人間ではないのかもしれないと疑わざるを得ない…いやこれ以上はやめておこう。

だが、ISTPとして少し思うのは、J型は人生をどの程度楽しんでいるんだろうなということだ。
計画性や方向性、客観性を重視するJ型と違い、その時の置かれている環境や生活、それに伴う感情や自由さを楽しむP型は必然的に人生の幸福度が高そうだよなと思う。

強いて言えば、ESFP/ISFP/ENFP/INFPあたりは生活上の不幸やトラブルが無ければ楽しそうだと思う。
同じP型でもESTP/ISTP/ENTP/INTPはxxFPに比較すれば劣るかもしれないが、J型に比べれば幸福度はある程度高いだろう。ただ、xxTP型の場合、物事の一貫性や論理性を重視するので、自身が理想とするものとは矛盾した環境に置かれたりすると途端に幸福度が低い(面白くない)と感じる欠点があるんだが。

ともかく、J型とP型は会話や生活のスタイルに大きな違いがあるので、それはもう深い谷がそこにあるといってもおかしくないだろうな。
J型はP型と比較すれば柔軟性に欠けるので、合わせるとすればP型がJ型に合わせるのが理想的だが、そのP型もタイプや性格の傾向によって幅があるし限界もある。

ちなみに自分(ISTP)がJ型と接する場合、そのほとんどが合わせる方に回るんだが、そうするのはトラブルにならないしコミュニケーションが楽になるからというのが大きい。
(だからISTPは根本的な協調性が無いと言われるんだが…)

だが、自分の場合はそこでJ型がどの程度社会的、あるいは人間関係の中の規則を重視するかによって、どの程度忍耐力が維持できるかが変わる。それは、前述した”自身が理想とするものを第一としている”からだ。

何を第一とするかは人によって異なるが、それが合わない場合というのも少なくない。コミュニケーションでは補えない、無意識の中にあるものが上手く噛み合わないというのはどうしてもある。

そんな時に、互いにどうやって擦り合わせていくか考えられれば苦労はしないのだが現実的には難しい部分もあったりして、やはり人間関係はな~~~~~~~となることもある。
長所が短所に、短所が長所になることなんてよくあるが、求めすぎても仕方ないにせよ、そういうところが人間関係の難しさだと思う。

■人間関係の敷居高すぎ?

YouTubeを何気なく流し見していた時、ふと『友達はどこからどこまでなのか論』の話を見かけたのだ。
そこには「一緒にご飯に行ったら友達」「ある程度価値観が合ったら友達」「話したらもう友達」など、色々な意見はあったのだが。

至ってよくある話題だとは思うのだが、それらの意見を散見して思ったのは、意外と友達の定義って曖昧なんじゃないかと思うことだ。

例えば、「一緒にご飯に行ったら友達」というのは、言い換えてみれば「わざわざ予定を決めて」「会ってご飯を食べながら話をして」「夕方か夜まで一緒に遊んで」までする(したい)ほど、相手の事が好きだったら「友達」なのではないかという事だ。

時間というのは常に有限ではあるが、自分が思うに先述で言うところの「友達」とは「親友」を指すほどのものではないかとも思う。
それだけの時間を相手に捧げても良いかなと思う程、相手にそれだけの好意を寄せているからだ。

日本人には内向型が多いので、意図的に人との関わりを持とうとする人が少ない。故に、食事に行くという行為そのものが、実はかなり敷居が高い行為なのではないかということだ。

しかし、仮にこれらが「親友」関係によって成り立つものだとするならば「友達」とはどこからどこまでを指すのだろうか。

自分が思うに「友達」とは、気軽に連絡を取れる仲だと思っている。
理由もなく、何となくふと思い出した時に「元気?」と送れる相手の事だ。年賀状だけ送り付ける相手ではない…はず。(?)

それで、果たして皆が一体何人くらいの友達を持っているのかと思うのだ。
もちろん、ただ毎日挨拶するだけを友達でないとするなら、かなり限られてくるのは言わずもがな。

自分が何気なく調べていた時、社会人における「友達いない(あるいは少ない)です!」の割合はかなり高いと感じた。

おそらく、仕事上の時間の無さが最もな理由だろう。実際、自分もそうだ。

だが、そうとしても友達ができないのはなぜだろう。
友達がいないと必然的に他人に期待してしまいやすいのは仕方ないことだが、友達という敷居が高すぎて結果的に悪循環に陥っていることも否めないだろう。

本来であれば、友達がいるいないに関わらず、人として気軽に友好関係を築いていけたら楽なのだろうか。それが友達か友達でないかはさておき。

人付き合いをするにあたって、内向的な性格で最も大きな壁となるのは心理的な防御壁だろう。エヴァのATフィールドでいうのがわかりやすいだろうか。
自分はこんな人ですよ、を気軽に表に出していけるのが外向的な性格の良いところだ。しかし、一方で失礼をしやすいのも一面としてあるだろう。

その心理的な防御壁というのは対人的な問題ではない。
多くは過去の経験や教訓から学んだ結果、そうするのが良いだろうという防衛本能に基づいたものだ。言い換えれば、自分の中で作り上げた高い壁だ。それは自分でどうにかすることしかできず、他人の力で取っ払うことはできない。

当然の話にはなるが、その壁が高ければ高いほど人付き合いは困難になる。
加えて、その壁を両者が持っていれば尚更対話は難しくなる。しかし、この壁というのは中々取っ払うには勇気が要るのも事実なのだ。

自分もかなり内向的な性格なので、少なからずこの壁を持っている。
だから友達は少ないのだが、変な話、人には恵まれてきた方なので「友達」は少ない方だが「親友」はできやすい。

相手の優しさがあれど、自分で自分の中の壁を壊す勇気は大切だ。
時間が有限なように、他人の優しさも有限だからだ。「友達」に対する敷居の高さは人それぞれだが、自分が「友達」が欲しいと思った時、自分の中の壁の壊し方から考えなくてはならない時もある。

内向的な人が外向的な人を羨ましいと思うのは、これらの作業を無意識に出来ているからだろうか。
自分は比較的人見知りしがちなのだが、そういった作業をしなくても軽くできてしまう外向的な人が羨ましいと思う。

人付き合いを気軽に考えられたら「友達がいない」なんて苦労をしないでも良いかもしれないが、これをきっかけに人付き合いを見直す事も大切だと感じた。

とはいえ、会話において中身を重視する内向的な性格が、色々と障害を生むのも事実…ではあるのだが。



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