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「努力」はダサいですか?

京都大学のかたにはスマートな地頭がいいタイプが多いのですが、わたしはガチの筋トレ的な努力タイプ。もしかしたら、格好良くないタイプかもしれません。

努力している姿が人を遠ざける

わたしは高3で京都大学を目指そうと決めましたが、到底無理なレベルからのスタートでした。ですので、朝5時から勉強して、部活もやりつつ、塾の授業前後は、事務室で先生を質問攻め。公立高校で、高3の最初はまだ入試範囲の授業が終わっていないのです。当時付き合ってた彼氏には勉強仲間としか見ません宣言しました💦

必死すぎて学校では浮いていき、だんだん一人で過ごすか、男子と話すようになっていきました。そもそも理系で女子の数がクラスの4分の1しかいないので、浮くのも早かったです。そして、男子とよく話すわたしは、陰口や無視につながりました。寂しかったけど、勉強しかない。学校では心の広い数人の友達や剣道部の仲間に救われてました。

学ぶ努力はイタいのか

わたしの周りでは「サラッとできちゃう」ことがかっこよく、努力を周りに見せるのは「イタい」ことだと思われるような気がします。特に、学ぶ努力に関してはその傾向が強く、京都大学でも勉強熱心な人は浮いていました。会社で働き始めてからも、「昼休みに資格や語学の勉強する」のは「努力する姿を周りに見せつける嫌味な人」扱いされ、「努力は家でやれよ」的な空気感を感じました。

周りから突き抜けるしかない

職場で努力している姿をさらけ出すことに抵抗がなくなったのは、母親になってからです。働く母は、朝も夜もとにかく時間がない。朝は5時台に起床して準備。子どもと一緒に寝ないと体力が持たないから、夜は9時台に就寝。仕事は定時になったらダッシュで帰っていましたが、あっという間に昇進試験を受ける年になってしまいました。

もう、周りの目なんかかまってられません。一緒に試験を受ける仲間たちは就業後に勉強会+飲み会、わたしは定時前にダッシュで帰宅、最悪なら保育園呼び出しで早退。使える自分の勉強は通勤時間と昼休みだけ。その時間、必死に勉強しました。試験から逃げてもよかったのに、そのときは前しか見えませんでした。

努力はやっぱり無駄だった?

無事試験に受かったあと、同僚たちと話をしたら、は「あんまり勉強しなかったけど受かった」と言っていました。彼ら彼女らには勉強会と飲み会のネットワークで情報交換をする機会があり、仲間との励まし合いもある。
もしかしたら、自分は遠回りの無駄な努力をしてたのか、と絶望感を覚えました。
なにかしなければならないとき、すぐにガチ筋トレスタイルで必死に努力をしてしまうわたしは視野が狭いのかもしれません。

イタい努力してる人のその後

わたしはその頃から「昼休みなにか学んでいる忙しい人」認定されるようになり、昼休みには誰も話しかけてこなくなりました。周りを気にせず、屋外で英会話したり、中国語ネイティブの同僚と中国語の会話をしたりしていましたが、もう学んでいる姿勢や努力していることを蔑む人は周りにいなくなりました。一度突き抜けてしまえば、誰も何も言わなくなるから不思議なものです。この努力のおかげで、全国通訳案内士(英語)も取得できたし、HSK6級も受かりました。
とはいえ、楽しく同僚とランチに行っている人たちをうらやましいと思う気持ちは消えないのも事実ですが(諦めが悪い)、自分は自分でいこうと思います。

突き抜けてしまった今、よくわからないのですが、努力がダサいって空気感って今もあるのでしょうか?ということです。コメント欄でも、お気軽に教えていただけるとうれしいです。

長文読んでいただきありがとうございました!

最後に、山口真由さんを紹介します。

「よく頑張るね」という言葉が、頑張りすぎをそれとなく蔑んでいるように受け取ってしまうところなんて、共感しすぎて涙出そうでした。

精いっぱい文章を書いておりますが、サポートいただけるとさらにお役に立てることが増やせると感じています。よろしくお願いいたします。