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『オーラの泉』ブームから考える価値判断力の鍛え方

「オカルト」を好んで受け入れる人もいれば、そうでない人もいる。当たり前の話だ。俺の場合は賛2に対して否8くらいの塩梅でオカルトに接していて、どちらかといえばオカルトに対して否定的な態度をとることが多い。とはいえ、オカルトというジャンルそのものを断罪したいという思いがあるわけではないし、オカルト関連のコンテンツでゲラゲラ笑うこともある。ただし、オカルトの持つ危うさを無視してはいけないとも思うわけである。

 友人と配信している東京西側放送局という番組では、その辺りに触れられなかったので書き残しておく。

オカルトと流行

「オカルト」には流行がある。

 1970年代はツチノコ、ネッシー、ユリ・ゲラー。1980年代はミステリーサークル、人面犬、冝保愛子。1990年代は『学校の怪談』、チャネリング、Mr.マリック。2000年代は『USO!?ジャパン』、パワースポット、細木数子……。

 もちろん常に人気なテーマもあるだろうが、ブームとしてのオカルト現象も確実にある。そのため「オカルト」という言葉から連想するイメージは(ある程度)年齢によって決定されるといっていいだろう。

 例えば、平成初期に生まれた俺にとっての「オカルト」となると、なんだ、ぱっと思い浮かんだのが、あれだ、上に挙げてこそいないが、江原啓之だ。厳密に彼が「オカルト」なのかどうかの判断は悩ましい。ただ、まあ、なんだ、あれだ。ベン図で表せば、かなりの範囲が「オカルト」に被っているだろう。

 話は変わるが、高校生の頃『オーラの泉』に出ている江原啓之を母親が熱心に見ていた。その後、母は鬱病になり、精神病院に入院した。

「病んでるわけでもないのに、あんな番組を熱心に見るなんて、おかしいもんな」 

 母の入院を知らされたとき、そんなことを思った。いや、まあ、そんな話はいい。後年、俺もその精神病院にぶち込まれるわけだが、いや、まあ、そんな話はいい。俺が精神病院にぶち込まれたときには、親戚が十数年間その病院に入院し続けていることを知るわけだが、いや、まあ、そんな話はいい。

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『オーラの泉』の悪性

 とかく、何を書こうとしているかというと、『オーラの泉』というTV番組の異様性が顕在化させたオカルト的危うさについて整理したい。そのうえで、オカルトを含めたさまざまなコンテンツを(その毒性に蝕まれることなく)楽しむための方法を考えたいのだ。

オーラの泉は心豊かに生きるヒントを提案するスピリチュアルトーク番組です

 そんなテロップから始まり、スピリチュアルチェックと呼ばれるいくつかの質問にゲストが一人で答えた後、その回答について国分がゲストに尋ね、江原や美輪がコメントする。続いて、「オーラのカルテ」と題するコーナーで、江原が中心になってゲストのオーラの色、前世、守護霊について語ってゆき、美輪がそれを復唱する(Wikipediaより)。

『オーラの泉』が、それまでに作られてきたオカルト番組とガラッと雰囲気を変えてつくられた番組だったことは否定しようがない。暗い色が基調となることがほとんどだったスタジオは真っ白になり、あたかも、オカルト性を脱臭することが目指されているように見てとれた(件の番組ではオカルトという言葉は用いず、スピリチュアルという言葉が用いられた)。そもそも、作り手がオカルトだと思っていないから…….という反論もあろうが、いまの時点から振り返るに、あの番組がオカルト番組の系譜にあったことは、明らかなので(例えば『オカルト番組はなぜ消えたのか』[青弓社]ではかなりの紙幅を割いて同番組が紹介されてもいる)その辺りは割愛。

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 番組の見た目もさることながら、何よりも大きな(そして悪質な)違いは、番組が目指すテーマ、そして、それに基づく前提だ。

 これまでのオカルト番組では、「謎」や「ロマン」としてオカルトを提示し、その真偽をめぐる議論(大槻教授と矢追純一のそれに代表されるような)込みで「お遊び」としてエンターテインメントにしていた。一方『オーラの泉』では、江原の能力についての真偽が議論されることはない。自明とされる霊能力によって生み出される「奇跡」や「感動」こそが番組のテーマに据えられていた。奇跡や感動を引き起こすために、議論やお遊びは邪魔というわけだ。

 その結果、いみじくも番組は人気を博すこととなる。ただし、その人気は良からぬ方向に影響を与えてしまう。中学2年生の男の子が、同番組に影響を受けて、飛び降り自殺をしてしまうのだ。遺書には「家族のみんな忘れないでいて。必ず会いに来る。ホントにゴメン サヨナラ」と残されていたという。

「常識さえあれば信じない」

 番組の影響は当然のごとく看過されず、2006年の放送番組審議会では、子供への悪影響や公共放送で守護霊や前世という言葉を用いることへの懸念が表明されている。

 それに対しての局側の反論は「信じてしまう視聴者もいるということを念頭に置きながら、悪い影響が出ないよう配慮して制作している。今後も常識の範囲を考えながら慎重な番組作りを続けていきたい」というものだった。

 言い換えるならば、「常識さえあれば、番組を見て、守護霊や前世を信じる人はいない」というわけだ。

 直接的ではないかもしれないが、間接的に1人の少年の自殺を招いておきながら、そんな説明を曰うわけである。そうした倫理観のもとに『オーラの泉』は作られていたわけだ。2009年になって番組はようやく幕を閉じた。

リテラシーは必要か?

『オーラの泉』は極めて悪質な番組だったが、そのほかのオカルト番組に悪質さがないのかといえば、そういうわけでもない。何もオカルトだけを悪者にしたいわけではない。言ってしまえば、この世のあらゆるコンテンツは、その全てになんらかの毒性があり、決してオカルトに限った話ではないわけだ。

オカルト番組がテレビからなくなったとしても、世の中からオカルトのネタがなくなるわけではありません。楽しむにしても真面目に検証するにしても、オカルトに対するリテラシーは必要です。でもそれをどこで身に付けて、誰がどう責任を取るかを考えると難しい。

 先にも挙げた『オカルト番組はなぜ消えたのか』の著者はそう語る。

「リテラシー」が必要なわけだ。首肯する。そして、その「リテラシーをどこで身に付けて、誰がどう責任を取るかを考えると難しい」というわけだ。これまた首肯する。そして、その「リテラシー」は、先にも触れた通りオカルトに限らず、あらゆる局面で求められるものだろう。

 とはいえ、リテラシーを身につけさえすれば、悪性に蝕まれずコンテンツを受容できるのかといえば、決してそう断言はできないだろうとも思われる。本当に重要なのは、リテラシーを身につけたうえで、一つひとつの情報に適当な判断を下せるようになるかどうかではないだろうか。

 しかし、その方法をどのようにして身につければ良いのかと考えると、これは難しい。とはいえ、その方法を導き出さなければ、議論は堂々巡りを繰り返すばかりだ。まずはじめに考えられるのは、論理的、かつ柔軟な考え方を身につけるといった類のものだろうか。ただし、その程度のことで、オカルト的なものや悪性に満ちたコンテンツを真に受けなくなるのかというと、決してそんなことはない。

 当然だろう。オウム真理教の中心メンバーのほとんどは難関大学で理系学問を学んでいたし、コナン・ドイルも奇術に夢中になっていた(コナンドイルは、“脱出王”として知られる奇術師ハリー・フィディーニに心酔していた。あれほどの物語をつくりあげる書き手が、何度トリックのネタを説明されても「超常的な現象が原因なはずだ」と譲らなかったのだという。『トリックといかさま図鑑 奇術・心霊・超能力・錯誤の歴史』[ナショナルジオグラフィック社]に詳しく取り上げられている)。

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 自分の論理への過信は情報に騙されるドデカい落し穴だ。注意したい。

悪性を孕むコンテンツへの対抗手段

 では、俺たちにできることはいったい何なのか。その重要な手段の一つに、価値判断を下す自分の能力に疑いをもつことが挙げられるだろう。信じる自分を疑い、否定しようとする自分に疑いを持ち、そうしてフラットな判断を下す……と書けば、これまたもっともらしい。

 いや、半信半疑の状態を常に保つことは理想的なあり方のひとつに違いない。しかし、人間、どうしてもバイアスがかかる。バイアスをかけず、半信半疑の状態を常に保ち、そのうえで価値判断の決定を下すというのは、究極的な理想論だ。

 しかし、現実的な手段が思いつかないのであれば、この究極的な理想論を叶える方法を考えるしかあるまい。次善の策が理想論の追求というのはおかしな話だが、仕方あるまい。

 信じたり、信じなかったり、それらをどこかで区切りをつけて、最終的には判断を下す。その能力を鍛錬するために最も有効なもの……それを俺は今から提案する。

「競馬」だ。

 競馬新聞や各種ニュースサイトから与えられる真偽不明な情報をもとに、さまざまな要素を照らし合わせながら、レースを買うのか買わないのか、買うのであれば、どの馬をどのように買うのか……。走破時計、血統、臨戦過程、コース適性、距離適性、相手関係、オッズとの釣り合い、想像される展開、馬の状態……。あらゆる条件を俎上に乗せ、バイアスを排し、最終的な判断を下す。判断が適当なこともあれば、判断が誤っていたことを反省させられる(それも最大1日36回も)こともある。概ね反省させられる。自分の論理への過信をほどよく抑えてくれるのだ。

 信じたり、信じなかったり、それらをどこかで区切りをつけて、最終的には判断を下す。その能力を鍛錬するために、競馬はなんて有効なものであろうか! 素晴らしきかな競馬!

 さて、というわけで、今週も俺は自らの価値判断力の鍛錬に励む。このエントリを書いている4月25日、中央競馬では二つの重賞が開催予定。信じる自分を疑い、否定しようとする自分のに疑いを持ち、フラットな判断を下す……。その結果、フローラステークスの本命はパープルレディ。マイラーズカップの本命はラセットと決まった。


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