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『現代思想9月号「スピリチュアリティの現在」』より「奇跡を実験する/小俣ラポー日登美」を読む

お笑い芸人「さらば青春の光」のコントに「パワースポット」というネタがある。長年パワースポットの警備員のバイトをしている森田が全然幸せになれていないという状況を切り取ったコントだ。2人が会話をしていくにつれ、森田の生活状況が判明していき、そのたびに東口が「え!? ここパワースポットですよね!?」とツッコむ。

パワースポットという存在の矛盾を突いた痛快なネタで、KOC2017ではバナナマンの両名が絶賛。全体3位につながる高得点を記録した。それだけ、パワースポット、もといスピリチュアルなるものにいかがわしさを感じている人が多いということだろう。俺もその1人である。

一方、パワースポットをはじめとした、スピリチュアルなものに傾倒する人もいる。彼らの思いは、それはそれで本気(マジ)だ。いったい何が彼らをスピリチュアルに引き寄せるのか。そこにきて、『現代思想10月号』(青土社)の特集が「スピリチュアリティの現在」ときた。読んだ。

宗教学者、心理学者、占い師……。10数名の筆者がそれぞれの立場から「スピリチュアリティ」について書いた特集号。なかんずく目についたのは、歴史学者の小俣ラポー日登美氏が書いた「奇跡を実験する トリノ聖骸布を〈検証/顕彰〉する科学」だった。

キリスト教における聖遺物の真贋をめぐる科学と歴史学の取り組みから何が見えてくるのか……といったテーマである。

イエス・キリストもしくは聖人の物理的な遺物である「聖遺物」は、信者にとってキリストや聖人と直接的なコネクションを持つ唯一の物質的な存在として、崇敬の対象になってきた歴史がある。それゆえ、中世には聖遺物は法外な価値を持っていたという。となると、自然の流れとして「贋造品」も氾濫した。

ただ、(その胡乱さは一部の関係者から眉を顰められつつ)贋造品だとしても、そのブツは信仰において中心的な役割を担い、地域的なカトリック共同体のシンボルになることも多かった=受け入れられていたという面もあった。

そんな聖遺物の中でも特級なのが「トリノの聖骸布」である。なぜか。磔から降ろされたイエスの遺体を包んでいた=教義の真髄である“受難(および復活の奇跡)”に直で関係するブツだからだ。

ネガ(下)左部に人形が浮かび上がっている

それだけ価値のあるトリノの聖遺物。当然ながら常に真贋には疑惑の目が向けられてきた。

19世紀末、写真撮影された聖骸布のネガにキリストの顔に見えるシミが残されていたことから“科学的な検証”が始まる。当時は、
・ネガで像が浮かび上がってくるような写真を絵師は描かない
・中世の医学的知識を超える解剖学的精緻があった
・最新技術である写真を使って撮られたという信頼感

から、「本物である」と結論づけられた。

が、当然ながら、それだけで真贋を断定はできないし、疑いの目を向ける人もいる。次第に議論は活発になる。

そして、聖骸布の存在がアメリカにも知られ、組織的な調査が行われることになる。広角X線散乱法、アミノ酸と還元糖から進行するメイラード反応を用いた検査、紫外線蛍光撮影……。なにやら専門性の高そうな仰々しい調査の数々である。俺には一体何がどうすごい検査なのかわからない、が、そうした調査の数々が行われたという。

さて、紆余曲折を経て、結局「放射性炭素年代特定」という方法をもって、聖骸布は1260~1390年代に成立したものだと判明する。つまりキリストの姿が写し出されているわけではないことが明らかになる。

現在となっては、聖骸布に関する主な研究は歴史学・文化人類学の分野で行われ、もっぱら受容のされ方が中心になっているとのこと。

ここからが、「おもしれーじゃねーの」と思ったポイントなのだが……写真のネガ像をもとに真実性が“科学的”に語られていたとき、聖職者・歴史学者のユリス・シュヴァリエは、「聖骸布に関する資料が15世紀以前にない」ことや、「浮かび上がったキリストの姿が中世末期に描かれたキリスト像と類似している」ことから、聖骸布は創作されたものである可能性が高いという研究を発表してもいたという。

それに対しての、教会側の対応はといえば「好ましくない」とし、研究の遂行自体にストップをかけるというものだったそう。

また、放射性炭素年代特定で聖骸布の成立が1260~1390年代だと判明したときの見解は、

それが必ずしも聖骸布の価値を損なうものではない。

ときた。

聖骸布が信者の帰依の対象であった歴史と伝統、及び現在においてもそうであることは、審議の鑑定結果が覆すものではないと主張するわけだ。

この欺瞞。同じ特集号の別稿で、柳澤田実氏が人類学者ターニャ・ラーマンの言葉を紹介している部分とのつながりをいみじくも感じる。

神や霊を信じることは、信じるように努力することであり、現実を作り上げることなのだ

宗教やスピリチュアル信者の多くは、むしろ自分が信じるものに対する疑いと常に戦っており、それゆえにコストをかける実践を必要としていた

といったものである。

「なぜそれを信じるのか」「なぜそれを信じられるのか」よりも、その、もっと前にある「なぜそれを信じたいと思うのか」にこそ、信心にまつわる本質らしきものは潜んでいるのかもしれないな、と俺は思った。

言わずもがな、トリノの聖骸布をめぐる、教会側の「なぜそれを信じたいと思うのか」は、ステークホルダーとしての権益に水を差されたくないから…と考えるのが、自然だろう。

小俣氏は、

聖骸布の真偽論争は、単に布の年代測定に過ぎない問題に見えるが、仮に成立の場所と時期が、一世紀の地中海世界であると特定できた所で終わらない。それがイエス・キリストその人個人の身体を覆ったものであることを証明することは不可能である。しかも、布の上になぜこのような身体状のシミが成立したのかに関しては、現在も完璧な説明がなされず、そのシミ自体が奇跡とみなされるように至っている。現代のルルドにおおいて、医学で解決されない治癒が奇跡と判断される例からも分かるように、科学的に分析困難となった時に、「奇跡」という解釈が入り込む余地ができるのだ。(略)意図的ではなくても、科学は聖骸布のミステリーに加担することになる

と、話題を結ぶ。

科学的だから信じられる。なんて考えは、まやかしにすぎない。それどころか、カール・ポパーがいうところの「科学的精神とは、自説を傍証する事例ではなく、自説を反証する事例を優先的に探索するような知性のあり方である」とは真逆の態度じゃねえか、と俺は思う。

“スピ”だろうと“伝統宗教”だろうと、「なぜそれを信じたいと思うのか」が抜け落ちちゃうと恐いよね、って。そんなところで。


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