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とてもとても素晴らしき映画『サン・ラーのスペース・イズ・ザ・プレイス』について

 嘆かわしい。まったくもって嘆かわしい。あんなに素晴らしい映画が、映画.comのレビューで星1.7だと?!

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 嘆かわしい。まったくもって嘆かわしい。そういうわけで、俺はこれから『サン・ラーのスペース・イズ・ザ・プレイス』がいかに素晴らしい映画なのかを訥々と語る。

そもそも「レビュー」って……

「そもそもレビューなんてどうでもいい。自分自身が見て面白いかどうかだけでしょ。オレは他人の価値判断を基準にしない」

 そんな聡明な考えの諸兄もいることだろう。わかる。しかし、今の時代はアレだ。飯屋も、酒場も、本も、動画も、音楽も、不動産も……何もかもに素人の「レビュー」がある時代なのだ。いま、あなたの目に映るもので素人のレビューに晒されていないものがあるだろうか。

 いや、ない。なぜならnoteはウェブサイトだ。どうしたって、このページを表示するためのデバイスが必要になる。スマートフォンかPCか。いずれにせよ、いまあなたが操作している(右手、ないしは左手を添えている)それすらも、誰かによってレビューがされているものなのだ。

「レビュー」が求められていないのであれば、こんな事態にはなるまい。需要が多いということは、つまり影響も大きい。レビューが悪いということは、ネガティブなスティグマを押されているようなものだ。いまの時代。

 レビューなんて気にしないあなたのように達観した人間ばかりではないのだ。

 そもそもインターネットにおけるレビューの平均値なんて、まったくもって無意味なのに、である。もしも2021年の今になっても、いまだにレビューの平均値を気にするような人がいるとすれば、その考えは即座に改めた方がいい。集合知がもてはやされて10年強。果たして集合知が俺たちに何か良きものをもたらしたことはあったろうか。

 いや、ない。「集合知」なる言葉が、どれほど陳腐なものになったかはGoogleトレンドでも見れば一目瞭然だ。

 にもかかわらず、世の中はレビューを気にして価値判断を下す人に溢れている! このままでは傑作映画『サン・ラーのスペース・イズ・ザ・プレイス』が評価の低い(ダメな)映画として世間に捉えかねられない。ひいては興行収入で爆死。ひいてはこうした意欲作が日本の劇場で上映される機会が減少してしまう。

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 嘆かわしい。まったくもって嘆かわしい。

 そこで、私は意識改革を求めたい(そう、まさしく『サン・ラーのスペース・イズ・ザ・プレイス』のように!)! レビューの平均値なんて気にする必要がない! 少しでもこの映画に興味があれば、すぐさま最寄りの劇場へ! さあ!

 というわけで、俺はこれから『サン・ラーのスペース・イズ・ザ・プレイス』がいかに素晴らしい映画なのかを訥々と語る。前置きが長くなってしまい、二度目の導入となったがご容赦願いたい。

 ややネタバレあり。ご注意ください。

サン・ラーという人物

 映画の話に入る前に、簡単にサン・ラーについて振り返る。

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 サン・ラーは、土星生まれのジャズ作曲家。出生名は放棄し、エジプトの太陽神の名を名乗っている。アフロフューチャリズム(黒人アーティストが表現した宇宙思想およびそのムーブメント)の先駆者として長く活動を続けた。商業的に成功したとは言い難いが、大量の音源を世に残し、前衛的な楽曲の数々は地球のジャズシーン(ひいてはヒップホップシーン)に大きな影響を与えた。多作すぎて彼の著作の全貌を把握している人はほとんどいない(と思われる)。

 なお、1937年には突然強い光に包まれ、一時的に土星にテレポートした経験を持つ。独特な出で立ちと突飛な思想でつくりだす音楽は「サン・ラー的」という形容が一番適当に思われる。衒学的な、と捉えても概ね相違ない。それでありながら名門バークリー大学で教鞭を取っていた過去もある。

宇宙、ブラックナショナリズム、エジプト神話、グノーシス主義……

『サン・ラーのスペース・イズ・ザ・プレイス』がつくられるきっかけになったのもバークリー大学で教鞭をふるっていた時のことだという。講義の内容をもとに、映画をつくろうとジョン・コニー監督(アーティストの活動を数多く映像化した)がサン・ラーを口説き、稀代のシンクレティズム・ムービーが生み落とされたのだ。

 宇宙、ブラックナショナリズム、エジプト神話、グノーシス主義……。サン・ラーをサン・ラーたらしめる要素がごった煮になった歪なブラックスプロイテーション映画。『サン・ラーのスペース・イズ・ザ・プレイス』を表そうとすると、どうしても文字数が多くなってしまう。まあ、サン・ラーに関連する作品である以上、それは致し方あるまい。

 映画のストーリーラインは、ざっくりと以下の通りだ。

 太陽神であり、宇宙音楽王であり、大宇宙議会の使者サン・ラーが黒人差別渦巻く地球に降り立ち、抑圧された黒人たちを救済すべく、音楽を燃料とする宇宙船で、宇宙解放のユートピアに導こうとする。(まさしくサン・ラー的なドクトリン!)

 しかし、その計画を邪魔しようとする「監視者」(話が逸れるが「監視者」というキャラクター名はかつて奴隷農場で白人に取り入って同胞の黒人を指す言葉でもある。黒人が黒人を管理する体制を敷いた=その方が楽という奴隷管理のおぞましさ……)がサン・ラーの計画を妨害。異空間の砂漠で黒人の運命を左右するタロットカードゲーム対決をすることになる。

 タロットカードゲームのやり取りはベルイマンの『第七の封印』で描かれた神とのチェス対決と同じスタイルで、ゲームの進行が映画の進行に連関するというもの。

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 監視者とサン・ラー2人のタロットカードゲーム対決の一手ごとの勝ち負けによって、現実世界=物語世界が駆動するかたちだ。

 本作の主要キャラクターである監視者は、その名の通り(上で触れたキャラクター名のを参照)金・暴力・権威で女を支配するタイプのキャラクター。傍若無人な振る舞いは物質主義者の象徴であり、一方のサン・ラーはいたってサン・ラーだ。つまり精神主義者。物質主義と精神主義がこれほどまでかと対比されながら、サン・ラーは音楽を用いた黒人救済運動を進めていく……。

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 序盤は監視者の独壇場で進む。物語のエンジンであるタロットカードゲーム対決で、引くカードは大アルカナの21番「世界」(理想とする現実の象徴)、大アルカナの7番「戦車」(猛進によって勝利を得る象徴)……。物質的な快楽を象徴するカードを続けざまに当て、サン・ラーの計画を一つひとつ潰していく。

 この間にサン・ラーは大アルカナの11番「正義」(公平・平等の象徴)を引くも、物質的快楽の前に現実世界=物語世界でサン・ラーが目指す救済計画は一向に進まない。

 しかし、タロットカードで「ジョーカー」(厳密にいえばタロットにジョーカーは存在しないが、ほかのカードと連続しない唯一のカードという意味で0番の「愚者」というカードのことを指していると考えるのだ妥当だろう)を引き当てることで物語は大きく展開する。

 タロットカードにおける「愚者」とは、読んで字のごとく愚かな者であるという意味とともに、無邪気で自由な冒険家という意味を持つカードである。

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 そんなタロットが指し示すように、(黒豹党の本拠地でもあった)オークランドに集う少年たちの行動が途端に変容するのだ。肉体的な闘争から新たな精神的な闘争へと。結果的に、サン・ラーは勝負に勝利し、精神主義に目覚めた黒人たちは、かつて先祖が奴隷船で連れ去られた歴史を遡行するかのように、スペース“シップ”に乗り込んで宇宙へと旅立つ。

 意識の変容によって、自由を手にしたという結末だ。

 冒頭で記したレビュー信仰のような潜在意識も変容が待たれる。意識の変容によって私たちは自由を手にできるのだ……って、ずいぶんスピリチュアルな方向に話が展開してしまった。しかし、サン・ラーについて語るとき、そうした傾向に搦めとられることは、ある程度致し方あるまい。ホドロフスキーについて語るときのそれと一緒だ。

 締めには、本作のキャッチコピーを。

 地球人よ、さらば。可能性は試され、失敗した。いま、不可能を試す時が来た。

 僭越ながら、少しでも興味を持った方はぜひぜひ劇場での観賞をおすすめします。劇場での観賞に意味のある作品。絶対に。

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 映画があまりに素晴らしかったので、4800円(貧乏人にとっては大変高額)を支払い、トレーナーを手に入れた。胸のプリントは「宇宙雇用機関」。かっけえ。春の普段着といきたい。

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