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国立西洋美術館「キュビスム展 美の革命」へ行ってきたとのこと

ずいぶん前からやっていて、ずいぶん前から行こうと思っていたが、結局は会期ぎりぎりになってしまった。

終了直前、最後の日曜日。これはえらく混んでいるだろうな……と思いつつ、山手線で上野駅まで向かう。公園口を出てすぐ。国立西洋美術館。

きたこれ。

思いのほかチケット販売窓口の行列は短い。

が、館内はといえば「まあ、そりゃ混みますわな」という具合でなかなかの人混みであった。みんな事前にチケットを仕入れているから、チケット窓口に行列ができてないだけなんだろうな、うん。

会場に入ると、行列をなしながらジリジリと歩みを進め、作品を観て回ることになる。

さて、立ち止まる人が多いのは圧倒的にピカソだった、し、俺も意識せずともピカソの絵の前で足を止めることがほとんどだった。なんだ。横並びになったときに圧倒的に“強い”のだ。誰が描いているかを知らずともそうなる。

アフリカの伝統美術みたいな雰囲気もあるんやね


油彩の直接的な立体感は抑えられているものの、細かな部分で多層性がある

近づいて観ると、絵筆の動きがわかる。こういう、画家の息遣いみたいなものを(勘違いだとしても)感じ取れるのが、生で観る良さやな、うん、である。

展覧会の構成は、キュビスム前からキュビスム後までを線形で辿るような格好だった。ので、美術史の(ある一部の運動の)流れを追っていくような鑑賞もできれば、どの時期の作品が自分にハマるのかを見定めるというような鑑賞もできるような形となっている。

要はカジュアルな構成であるし、もともと、俺はキュビスムについて、カジュアルな鑑賞態度でいられる芸術運動だという印象を持っていた。

ロベール・ドローネー『都市no.2』

なぜか。アブストラクトでシンプルにかっこいいじゃないですか。洒落たミュージシャンのCDジャケットといった雰囲気がある。

とはいえ、キュビスムはその思想的基盤からして、どこか神経質な作り手が生み出した運動という面もある。だからか、展覧会全体を取り巻く雰囲気は重苦しくも感じられた。

ロベール・ドローネー『パリ市』

ただし、すべての展示作品がそうした雰囲気を有しているというわけではない。例えばロベール・ドローネー『パリ市』は、会場をパッと明るく照らす。

そうした部分を含めて、この時代の西洋美術すべてがキュビスムに還元されているわけではないことが、この展覧会の肝になるようにも思われた。

言わずもがな、同時期に同じ国で活躍していたのがアンリ・マティスであり、言わずもがな、同時期に同じ国でフォービズムを先導したのがアンリ・マティスであり、俺は展覧会を周りながら、この時期のマティスはどんな風な作品を描いていたかに思いを馳せていた。同時期に切り絵シリーズに辿り着いていたマティスはマティスで化け物だな、というか、内政が深い作家だったんだろうなとなり、マティスの株がとにかく上がる。

一方、展覧会自体に並べられる作品もしびれるものがある。無学な俺が知らず、そして、知ることができて一番よかったのがフランティシェク・クブカという作家だ。

フランティシェク・クプカ『挨拶』

日本を代表するグラフィック・デザイナーの勝井三雄さんだったり、近年活躍が著しいmillitsukaさんだったりの素晴らしい作品にもつながる、なんだ、ポップなサイケさがあるというか、なんというか。令和の日本にも通じるグラフィックとしての強度というか。

フェルナン・レジェ、ダドリー・マーフィー『バレエ・メカニック』 現場で写真を撮ってないので図録から

そして、最後に書いておきたいのが、展覧会ラストで実験映像の名作『バレエ・メカニック』が観られたのは俺にとって僥倖といえるということとなる。

約14分という尺の映像なだけに一から十まで全てを見るような人はほとんどいなかったが、そこそこの環境で『バレエ・メカニック』を観られる機会は稀有なんじゃねえのか。俺が知らないだけで色んなところで上映しているのか。わからない。はてさて、極端なクローズアップとラギッドなトーンのモノクロ画面、イメージの運動、とにかく映像のプリミティブな悦びがある。撮影はマン・レイが担当している。が、なぜかキャプションにはクレジットされていない。なぜだ……。

さて、俺のキュビスム展についての感想はそんなところとなる。

アメデオ・モディリアーニ『赤い頭部』

あ、あと、モディリアーニの絵はいつ見ても棟方志功みがあるな。

会場の国立西洋美術館がある、上野公園内の球場で行われる少年野球を眺めるおじさんたちを一瞥して帰宅する

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