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『野良人間』が良質な「ホラー」映画である決定的理由がこれだこれ

「人を誘っておきながら隣からスースー音が聞こえてきましたよ?」

「なんとも衝撃的な映画だったな」

「いや、寝てたじゃないですか!」

 新宿武蔵野館での上映終了後、仕事終わりに劇場へ足を運んだと思われる二人のサラリーマンは、そんな言葉を交わしながら劇場を後にして行った。言葉の真意は測りかねるが、彼らにとって"fun"な意味での楽しい映画でなかったことは疑いようがないだろう。

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 その気持ちもわからなくはない。今にもこちらに飛びかかってこようとする子どもが大写しになった宣伝ビジュアルとは裏腹に、『野良人間』の質感は極めて静的だ。

「ダイナミックなホラー」を想像した観客や、アマラとカマラ、もしくはノモレ的な硬質なドキュメンタリーを期待した観客が肩透かしを食らうのも無理のないことだろう。俺の場合は、この肩透かしが上手い具合にツボにハマった。

 話は脇道に逸れるが、こうした意外かつ偶然の出会い、予期せぬ良作の発見というものは、各種配信プラットフォームの「この作品を見たあなたにはこちらもおすすめです」といったレコメンドでは、なかなか遭遇しえない、映画館ならではの観賞体験ともいえよう。そもそも映画の宣伝なんて肩透かしばかりだったことは斎藤守彦氏の著書を読めば明白だ。そして、俺はそんな宣伝会社の狡猾さが嫌いではない。今回の『野良人間』の宣伝ビジュアルにデカデカと記された「ロッテントマト驚異の100%!」という惹句もいいじゃないか。一体いつの数値のことを言ってるのかはわからんが、それでいいのだ。そういうもんだ。さて、話を本筋に戻す。

※人によってはネタバレと思う方もいるかもしれません。ご留意くださいませ〜。

ストーリーライン

 1日約300人、年間約10万人が誘拐され、3万人近くが命を落とすといわれている犯罪大国メキシコ。 身代金目的だけでなく、人身売買や臓器売買の犠牲となっているその犠牲者の多くが幼い子どもたちである…。南米の山奥からの未体験の衝撃、“ラ・ヨローナ”伝説を遥かに超えた、想像を絶するリアルな恐怖が襲い来る! 1987年、南西部の都市オアハカ郊外の人里離れた山岳地帯の民家で火災が発生し、家屋は全焼、焼け跡から1本のビデオテープが発見される。その後紛失するが、2017年に見つかり、約30年ぶりに真相が明らかになる。ビデオに映っていたのはまるで野獣のように野生化した子どもたちだった! 30年前、そこで一体何が行われ、何が起きたのか? なぜ、子どもたちは野生化し、どうやって獣のように生きてきたのか? 彼らは被害者なのか? それとも…?

 あらすじを読めばわかる通り、この映画はいわゆる「ファウンドフッテージ」モノだ。それだけで興醒めしてしまう人もいるかもしれない。わかる。少なくとも俺はここ数年そうしたきらいがある。

ファウンドフッテージの拡張

 しかし、『野良人間』のそれは、一時的に新奇性をもたらし、ホラー界に新風を吹き込んだものの、今となっては構造的な限界が見られ、もはや古さの象徴になったとさえいえる「ファウンドフッテージ」ではない。観客が恐怖する対象をフレームの外に出しておくことが目的化したような「ファウンドフッテージ」ではない。

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『野良人間』のそれは、ファウンドした(とさらる)フッテージの処理が、巧みなのだ。

“焼け跡から発見されたビデオテープ”に残された超常的な映像で物語るのではなく、焼け跡で亡くなっていたフアン・フェリペを知る数少ない知人へのインタビューを基に事件を調査していくという形式が主となり、フッテージの映像は従の関係で映画は進む。

 知人へのインタビューで明らかになってくるのは、フアンが毒母に抑圧された子供時代、(精神分析の世界が戦闘的「無神論」の聖域だった60年代にしては特異な)宗教と精神分析が混在する修道院での修道士時代(メキシコに実在したグレゴリオ・ルメルシエという修道士がモデルか)、信仰が先鋭化したため人里離れた場所での隠遁生活を送るようになってからの彼自身の生活だ。

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 そして、知人の一人は、フアンが保護して飼いならすことを決めた「野良人間」についてのビデオを預けられていた。これが本作における一つのフッテージである。

 その映像に収められているのは、先鋭化した思想を持つ(端的にいえばイカれ気味な)聖職者フアンがキリストの教えを基に3人の「野良人間」を教化していく様子。人里離れた山奥で擬似的な家族を形成し、椅子の座り方、水の飲み方、2つの足を使った歩き方、声帯の仕組み……そして人間を信じることを教えていく。

聖職者による「教え」

 それらの取り組み・研究は当初こそうまくいくものの、子どもは次第に聖職者フアンの教えを意に介さなくなってくる。

 かといって、フアンに対して敵意剥き出しに襲いかかってくることもない。ただ、フアンのやらせたい/やってほしいことと子どもたちの行動がズレていくだけだ。子どもたちに悪性はない(多少のイタズラは起こすが、それはどれも異常性を示すほどのものではない)。

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 つまり、子どもたちはこの映画における「モンスター」ではない。そんな構図が明らかになるにつれ、物語は不穏な方向へ向かっていく。

 公開から間もない作品なだけに、描写の説明は避けるが、自分が愛しているはずの子どもたちが“神の意思”に背く。背いた際には、罰や規律で文明を伝える……、ひいては、フアンは神の意思に基づいて罰を与えるようになっていく。

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 これは、文化的発展における一基準としての宗教」を痛烈に批判するものであり、人間(フアン)と動物(野良人間)を対比させつつ、人類が動物的なルーツからどれほど離れているのかという疑問を投げかけるものである。

 フアンは「救える」「教える」対象として、野良人間と向き合い続け、野良人間とされる子どもたちに対して、「正しい」教育を施そうとして、それに背けば罰を与えていく。

 いったいどちらが文明的な人間であろうか。

聖職者の「隣人」

 なお、本作で描かれる対象は聖職者フアンの宗教的“熱情”と彼の気まぐれに従う/従わない子供たちだけではない。

 フアンと、その擬似家族が暮らす山里の隣人たる、近場の街の人々たちを描いたことが、『野良人間』という映画に奥行きを与える。

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 街で暮らす人々が行っていたこといえば、コミュニティの外部にいる人間に対する「排除」に違いない。コミュニティ内部の人間は、隣人であるフアンを邪魔な者とし、忌み嫌うかのように拒絶した。休日の朝には教会に多くの人が集うような街でありながらも隣人を拒絶した。

※その街に暮らす人物へのインタビュー(外部への閉口に終始するような)と、多くの人々が教会へ集うシーンで、そうした構図が描かれる。

 この構図は、言わずもがな信仰とコミュニティを一括りにする弊害を暗示・非難している。
 
 聖職者フアンはいきすぎた信仰、ならびに、いきすぎた信仰心を抱かずにはいられなかった環境からなる精神崩壊の犠牲者であると同時に、隣人であるコミュニティから拒絶され(拒絶し)た犠牲者でもあるのだ。

※余談だが、映像内で示唆されるフアンのゲイという性的嗜好も聖職者である彼自身を苦しめたことも書き残しておく。

 ギュスターヴ・ル・ボンが名著『群衆心理』で示した

 群衆は、単純かつ極端な感情しか知らないから、暗示された意見や思想や信仰は、大雑把に受け入れられるか、斥けられるかであり、そして、それらは、絶対的な心理とみなされるか。これまた絶対的な誤謬と見なされるかである。推理によって生じたのではなく、暗示によって生み出された信仰とは、常にこのようなものである。宗教上の信仰が、どんなに偏狭であって、どんなに専制的な威力を人心に揮うかは、誰でも知っている。 群衆は、自ら真理あるいは誤謬と信ずることになんらの疑いをもさしはさまず、他面、おのれの力をはっきりと自覚しているから偏狭であるに劣らず横暴でもある。

 といったところか。

 また、日本人にとっては(少なくとも俺にとっては)馴染みが薄いものの、ハイキングの途中である小さな町にやってきた学生たちが、村の司祭から、「彼らはメキシコシティでの学生デモを取り締まる軍隊から逃れてきた共産主義者だ」と非難し、町の人々を集めて彼らをリンチにかけたメキシコ・カノアで起きた実話を示唆していることも触れておきたい。

『野良人間』がホラーである決定的理由

 無知と教会の影響による恐怖・拒絶・暴力が発生したメキシコの村の様子を描きながら、動物(とみなした人間へ)の教化・伝道による(複雑な)正気の喪失というテーマを描ききる。それが『野良人間』という映画だ。超常的な現象を描くストレートなホラーではないものの、深い信仰と信念がもたらす狂気、村人コミュニティの群集心理はホラー以外の何物でもない。

 ラストシーンで明かされる人物関係はこれまた痛烈な宗教観。グッとくるほかない。

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