伊藤亜沙さんの「利他とは漏れ出るもの」は僕の思う合唱のあり方に繋がる。
伊藤亜沙さんの著書が好きで、よく読んでいる。
最近、伊藤さんの「利他」についての対談、著書を読んだ。
この中で、「利他とは漏れ出るもの」という言い回しがあり、自分の行っている合唱活動のあり方と共鳴した気がして、ちょっと書いてみたい。
辞書を引くと「利他」とは、
他人に利益となるように図ること、 自分のことよりも他人の幸福を願うこと。
とウィキペディアには書いてある。つまり、「利己」と対応する単語であるわけだ。
この「利他」というのが、僕は苦手だ。「利他」として、人にやっていることは結局「利己」なんじゃないかと思っているわけだ。
そして、「利他」を強要されるのが一番苦手だ。
でも、これが合唱活動をしていると多くあるわけだ…。例えば、パート練習というのが私は苦手で、なぜ自分の時間を使って人の面倒を見ないといけないのかと思っている。
合唱は集団活動なので、集団が上手くなることが重要で、そのためには他人が上手くなることも大事なので、パート練習をするのだと思うが、何かやってあげている感が強くて好きではない。
逆にパート練習をされるのも好きではなくて、それは上記の理由に近くて、まあ、やってもらっている感じが好きではないのである。
もっというと、やってあげてる側とやってもらってる側に一種のヒエラルキーを感じるからかもしれない。
まあ、そもそもこんなことを考えながら、パート練習を受けていること自体が、既に利己的なのだろう。
というわけで、僕は基本的にパート練習反対派なのである。
でも、パート練習をやらなければ、音は取れない、歌も上手くならないじゃないかと思うだろう。
僕はそうは思ってない。上手い人の隣で歌っていると自然に音が取れ、上手くなるという現象が合唱は起こるのである。これは面白い。
ただし、この時に2つの条件がある。それはその人(受け取る側)が、
・耳を使うことができている
・自分に固執しない(プライドで歌わない)
ことだ。
そうすれば、聴こえてくる声が自分を育ててくれる。
しかも、与えている側は、純粋に合唱歌手として歌っているだけで、相手を教えたいわけでもない。
これは、まさに「利他とは漏れ出るもの」という状態なのではないだろうか。別に、他の人のために”してあげている”わけじゃないのに、自然と周りが育ってくる。それは素敵な関係性だ。
本当にそんなことで育つの?と疑うかもしれない。でも、本当に育つんです。それは、教育学者であるヴィゴツキーの「発達の最近接領域」にもつながるところがあるなとも感じる。
「発達の最近接領域」は、既に一人でできることと、まだ自分ではできないことの間にある、一人ではできないけど、外部の助けがあればできる領域のことだ。
ここでいう助けとは、周りと行う協同作業のことだ。一緒に行えば少し高いハードルもクリアしていける。
だから、歌い手の皆さんはちょっと背伸びしてみてもいいなと思うし、周りが受け入れつつ、周りはいつもの自分の歌を歌えば、自然に合唱団は育っていくんだと、僕は思っている。
そういう意味では、私が振っている合唱団ぽっきりは利他がナチュラルに漏れ出る人が多いので、気持ちが良いなぁ、と思っているのです。
あ、最後はステマみたいになった。ステマついでに、演奏会あります!弦楽入ります!良ければ来てください!