見出し画像

1.豚骨スープの湯気に別れの挨拶を

この町に初めてできた豚骨ラーメン屋に最初に私を連れて行ってくれたのはNさんだった。私はNさんよりもその連れ合いであったA子さんと以前バイト先が同じで、だからNさんは初め私にとって単なるA子さんの“旦那さん”であった。二十代の前半、かなり無軌道な生活を送った私は一時体を壊し福島の実家に戻っていたが、私を再び東京に呼び寄せてくれたのはこのA子さんだった。
「うちの人もいるし。ちゃんと寮もあるから。」と電話口でA子さんは言った。
「しばらくそこにいてお金が溜まったら、また、自分でアパートでも借りればいいじゃない。」

こうしては私は26の時、ある建築現場を目指してバック一つで再び東京に戻ってきた。だが、来て見て驚いたのはそこは“寮”などという代物ではなく、東北からの出稼ぎ労働者が寝泊りする“飯場”であった。トラロープに干された作業着、汚れた軍手の山、脱ぎ散らかされた地下足袋。さっきまで面接で『宜しくっス。』とか言っていたのにその“飯場”を見たとたんに帰るとは言えなくて私が呆然としていると、ズーズー弁のおじさん達の中から一際体の大きい男が近づいてきて私に声をかけた。

『あんた、村ちゃんかい?Aから聞いているよ。』と、滅茶苦茶良い男が声をかけてくれ、それがNさんだった。

Nさんは『今夜は村ちゃんの歌でも聞くか。』と、その夜、いきなり私を高級クラブに連れて行った。そんな場所は私には初めての経験だったのでどう振舞ってよいのか分からず半ばヤケクソで歌っていると、一曲終わるごとにNさんは『上手い、上手い』ときれいなお姉さんたちに囲まれて手を叩いた。だが、その後『それじゃ、俺も一曲。。』とNさんが森進一の『北の蛍』を歌った時、私はしばらくこの“飯場”で暮らす決心をした。私はNさんの超絶的な男っぷりの良さに“持っていかれちまった”のである。

Nさんは昔、故郷の九州で鉄火場に出入りし、取引のため持たされていた会社の金?千万を使い込み、恋人であるA子さんを連れ東京に逃げてきた過去を持っていた。以前酒の席でそのことを私が聞くと、漫画“泣きの竜”のような目をして「俺は、俺の祭りをしただけ・・・」とポツリと言った。私は今でもその時の腐った煮魚のようなどろりとした凄みのあるNさんの目つきを思い出すことがある。

そんなNさんの“祭り”にひょんなことから私は居合わせてしまったことがある。それは初めて行った豚骨ラーメン屋でのことだった。スッカリ“兄貴”と“舎弟”のようになっていた私達は、冬のある日、二人でサウナに行った帰り、そのラーメン屋に立ち寄ったのだ。

店の外にも豚ガラを煮込んだスープの匂いがもれていて、店内はその蒸気でさらに匂いがきつく“むん”とした。Nさんはいつも『俺は大阪より西に行ったら殺されちまうんだ・・』と言っていて、故郷の土は二度と踏まない(踏めない)つもりだったから、本格的な九州ラーメンを食わすこの店には人並み以上の郷愁を感じているようだった。

「俺は九州の佐賀で豚骨ラーメンの替え玉を最高12個食ったことがある。」と、ラーメンを啜りながらNさんが行った。「スープが段々、薄まっていくのがいいんだ・・・」 Nさんは異常な食欲の持ち主でもあった。

その直後、隣の席から下品な笑い声とともに酔っ払ったおやじが「ちぇ!嘘こくんじゃあねえよ、馬鹿。」と言う声が聞こえた。おやじはパチンコで負けた帰りか何かのようでビールで酔って赤ら顔で意味不明に苛立っていた。「そんなに食えるんなら俺あ、5万出したっていい。」とおやじは言った。

その途端Nさんの目つきが変わった。腐り煮魚どろりモードの目である。ポルスター・ガイスト現象が起きる時ラップ音というピシっという音がすると言うが、私の耳にこのピシっに似た音が聞こえた気がした。そう言えばA子さんがいつも良く言っていた。将棋をしようとビリヤードをしようと卓球をしようとオセロをしようとジャンケンをしようとゴム跳びをしようと、うちの人とは絶対金を賭けてやっちゃ駄目!と。

私は戦闘態勢になっているNさんにドラマ『傷だらけの天使』のショーケンに纏わりつく水谷豊のような口調で、アニキ、アニキィ、止めようよ、馬鹿らしいって、そんなことして、腹壊したらどうすんのよ、・・みたなことをきゃんきゃんと吠え立てたが、すでに勝負は始まっていた。『替え玉。』とNさんは言った。黒ひげ危機一髪の黒ひげみたいに頭にターバンを巻いた兄ちゃんが厨房に向かって『替え玉一丁ー!』と叫んだ。

2個目、3個目まではまだ静かだった。しかし、4個目になると店内がざわつき始め、5個目になった時、お父さんに連れられてきた小さな女の子が『しゅごい、しゅごい!!』と手を叩いた。6個目、7個目になると店内の客が周囲に集まり始めた。Nさんは無言でずるずるずるずるずるずるずるとひたすら音をたててラーメンを食い続け、音が止むと『かえ・・玉。』と言った。『替え玉一丁!!』と黒ひげが何度も厨房に叫んだ。

初めに難癖をつけてきた赤ら顔のおやじは初めはにやにやしていたが、そのうち盛んに着ていた安物のジャンパーのポケットの中を気にし始めた。10個目に突入すると携帯でパチンコ仲間かなんかに連絡を取り始め、金を借りる算段をしようとしているようだったが叶わず、11子個目になるころには顔色が赤から青に変わっていた。

12個目をついに完食した時、店の戸がガッタっと鳴る音がしておやじが走って逃げていった。店内の野次馬の何人かが追いかけていったが、おやじは放置してあったオンボロの自転車にまたがって見えなくなってしまった。私は誇らしかった。馬鹿らしかったが、誇らしかった。アニキィ、アニキィ、やっぱアニキはスゲーなぁ、男だなぁー、あのおやじ今度見かけたら、金は俺が巻き上げとくからよーと、水谷豊になって言いたい気分だった。その時Nさんが私の手首を摑んで言った。

「村ちゃん、金ある?」

それからしばらくしてNさんはこの町から消えた。残されたA子さんの話によれば、一世一代の大勝負とやらに負けて何百万かの借金を作り、この町にいられなくなってしまったらしい。A子さんと籍を入れないでいたのはそうした時のためなのだった。「すっごく優しい人なの。。。」A子さんはウットリしたような表情で言った。そしてA子さんは九州へ帰ってしまった。

そのラーメン屋は今でもこの町にある。かつて替え玉を12個も食った男がいたことは今やこの店の伝説だ。いまでも時々私はその店にラーメンを食べに行く。あの頃と一つだけ変わったのは店内に手書きの貼紙がしてあることだ。貼紙にはこう書いてある。

『替え玉、お一人様3個まで。』

 BGM 小山卓治 『傷だらけの天使』


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?