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6.花火

焼けたアスファルトに陽炎が揺らめくのをオレは道路脇に寝転がりながら、じっと眺めていた。

アスファルトの逃げ水には空の青さと雑木林の緑が映り、時折、頭上で旋回するトンビの直線的な鳴き声が、自転車をこぎ続けて疲れた体に染み入ってくるようだった。太陽は傲岸不遜に上空の一番高い所に居座り続け、地上のものすべてを焼き尽くそうとしていた。

その夏は異常な暑さだった。テレビやラジオは「観測史上初めて」という言葉を何度もわめき立てていた。毎朝、自分の額や首筋を流れ伝う汗の不快さで目を覚ました。

どのくらいそうしていただろうか?やがて逃げ水に影が映った。初め豆粒のようだった影は次第に大きくなり、それは自転車を立ちこぎする男の姿だった。

男は車のほとんど走ってこない傾斜した道路の車道部分を必死の形相でこちらに向かってくる。現実の男と逃げ水に映る男の影が上下になって近づいてくる絵は、なんだか幻が段々と実態を帯びて迫ってくるようだった。オレは寝ていた体を起こし、男が目の前を通り過ぎて行くのを待ち構えるような姿勢になり目を凝らした。

先に声をかけて来たのは男の方だった。自分と同様の自転車乗りが寝転がっている姿を見て休もうと思ったのか、傾斜が終わり道が平坦になった辺りから自転車を降り、手で押しながらゆっくりとオレに近づいてきた。

『あのう、もし、空気入れを持っていたら貸していただけませんか?』と、最初、男は息を切らしながらそう言った。

同じ自転車に乗る者同志と言っても、オレと男には見た目にも大きな違いがある。コスチューム、ヘルメット、防虫用のサングラス。服装もそうだが、一番大きな違いは自転車だ。何でも形から入るオレは、今回、旅するにあたって結構本格的なロードレース用の自転車を買った。そして装備も万全にしてリュックの中には携帯用の空気入れもちゃんと入っている。それに比べ男はママチャリで服装も土木作業員が履く作業ズボンにワークシャツと、今、家の近くのコンビニに煙草を買いに行く所と言っても可笑しくないスタイルだった。荷物は何も持っていなかった。

『パンクしているっていうわけじゃないんですけど、なんか空気が少なくて、こいでて気持ち悪いんですよ。』

男は多分、三十~四十代。頭を何度も下げ、一見して、気弱そうな印象だった。聞く所によると、男はそんなスタイルで随分遠くまで行くつもりらしくて、何処から来たのか、出発して2日目だと言った。何か訳ありのようだっだか、勿論、オレは聞かなかった。

どういう会話の成り行きでそうなったかは良く覚えていない。が、“東京に着くまで”ということでオレ達は途中まで一緒に旅することになった。ママ・チャリと併走して行かなければいけないのは気が重かったが、そもそもこちらにしたって何か目的があっての旅ではない。オレが「いいよ。」と言うと、男は上目遣いでオレを見て、そしてにっこりと笑った。

               ☆

 『マヨネーズ?』とオレは聞き返した。

長野県の路上で出逢った後、数日たってオレ達は神奈川県の相模湖まで来ていた。立ち寄った湖畔のレストランで男はスパゲッティを食べながら、人の顔を見もせず、独り言のように自分の旅の目的をぶつぶつと話し始めた。オレはその話が余りに荒唐無稽な気がして、周囲から現実感が急激に失われていくのをオムライスを食べながら黙って耐えた。

『私の田舎じゃ、冷やし中華にはマヨネーズが付いてネ。』と、男は言った。そして殺人罪で長く服役した後、先月、出所してきたばかりだとも。

「えー、うっそだあー!!」と、オレは“そう、嘘、ガハハハハ”みたいな展開を促すように言ってみたが、男はそれには無反応だった。

男には昔連れ添った女がいて、女は先月とある町でラーメン屋を開店したらしい。それで男はあることを確かめるために自転車でその店まで行くのだと言う。

「昔、二人で店をやろうなんて言ってメニューなんかをあれこれ考えていた頃、うちのやつにそれを言うと気持ち悪がってね。“絶対、そんなのメニューに入れない!”って言われました。」

出所する時、男は女に手紙を出したのだと言う。「もし、自分を待っていてくれているんなら、マヨネーズを付けた冷やし中華をメニューに入れておいてくれって、ネ。」

「なんか、どっかで聞いたことがある話だなぁ。」オレは飲んでいる水を吹き出しそうになった。結局、オレはその女の店まで男に付き合うことになった。

              ☆ 

酷い暑さだった。数キロ走るごとに休憩を取り水分を補給しないとすぐ熱射病になる恐れがあった。オレ達は相模湖畔から甲州街道をひた走り、八王子、立川、国分寺、府中、調布を抜け、新宿、四谷へと至り、内堀り通りから晴海通りを経て海沿いのコースを取った。

東京湾の水が見えたとき、男は“うぉーい”と歓声を上げた。彼が育ったのは太平洋を望む漁港で、海が見えただけでも、もう郷里に帰ってきた気がするらしかった。さらに数日かけてオレ達はそこから湾岸通りを市川、船橋、習志野、千葉市へと進んで、千葉県の“ウエスト”の部分を126号線で横断し、東金市から再び海へ出た。男の話では後はひたすらこの太平洋沿岸を北上していけば女の店があるということだった。

海沿いの道を走るのは気持ちよかった。暑さは相変わらずでも海からの風が体に篭った熱を冷ましていくようで、空気の悪い都心を四苦八苦して走っていた頃に比べると走り易さは大違いだった。途中、オレ達は何度か自転車を止め、浜に降り、裸足になってくるぶしまで海に浸かると、防波堤の上で休息した。

               ☆

・・・・・・・太陽の光と白球とが一瞬、重なり、足元にぼとっと、音がした。三塁ランナーが狂喜してホームベースを踏むのが見えた。仲間は誰もオレを責めなかったが、それが余計に辛かった。夏の高校野球地区予選決勝。オレはそれ以来、一度もボールを握っていない・・・・・あの時と同じ太陽・・・・・・。防波堤で見る夢は何故かあの瞬間のことばかりだった。ペダルをこいでいる時は無心でいられるので、この暑さだって言うのに俺は走っている方が楽に思えた。

太平洋沿岸の道に出ると途端にのどかな風景に変った。別に急いでいないオレ達は青い海と田園の緑の風景の絵にすっかり溶け込んで、何処までも自転車をこいで行った。男の自転車は途中、何度もパンクし、その度オレが直してやった。段々パンクとパンクの間隔が短くなってきたが、それは休息の合図ということにした。今度、道中、自転車屋を見つけたらタイヤごと変えた方が良さそうだった。

夏、このコースをオレ達のような旅をする者にとって一つだけ良いことは、要所要所に海水浴場があることだった。オレ達は疲れると海の家で食事をしてパラソルを借りて浜で寝て、また水着の女の子を眺めながら筋肉痛の足をマッサージし続けた。そして夜も昼間の延長のようにして砂の上で眠った。場所によっては海の家でバイトする女の子と仲良くなって、オレは一度、女の子の軽に乗って近くのモーテルに一緒に泊まりに行ったりもした。

ケンさん、とオレは男を呼んだ。その頃までにはオレは男とすっかり打ち解けて半分冗談でそんな風に呼ぶようになっていた。旅の理由が理由なだけに男も特に否定はしなかったが、本当のところ男は高倉健になんて全然似ていなかった。

夜、海の家でビールを飲みながら色んな話をした。学校を出た後、横浜の中華料理店で働きそこで女と知り合ったこと。開店資金を騙し取られ、返してもらおうと直談判に行った先で袋叩きにされ、偶然近くにあったナイフで相手を一突きしてしまったこと・・・・・。オレはこの風采の上がらない男の過去にそんなドラマが秘められていること事態が何だか不思議な気がした。

「中にいる時、外に出たら一番したいと思っていたことなんだか分かります?」と、ケンさんが言った。

「自転車ですよ。自転車。車やバイクじゃなくてね、こう風の中を自転車でフラフラと旅したいなぁ、なんて、いつもそんなことばかり考えてて。だから、私、今、ホントに楽しいんです。」 

             ☆

茨城県の日立辺りの海水浴場に少し長逗留した後、オレ達は6号国道をさらに北上した。日付がいつだかオレは曖昧になりかけていたが、昼、ドライブインで食事した時、店内のカレンダーを見ると8月15日となっていた。どおりで交通量が多くなってきたと思った。お盆で帰省する車が高速道路が込んでいるせいで下道に下りてきているのだった。

夜の7時頃だった。辺りはまだ十分明るかった。オレ達は例によって一休みしようと海岸沿いの道に自転車を止めた。オレはかなり疲れた様子のケンさんを浜まで連れて行き休ませると「晩飯買ってくる。」と言って、近くのコンビにまで歩き始めた。自転車で行けばとも思ったが、もう尻が相当に痛くて歩いて行きたかった。自転車に乗っているとき確認した店だったが、歩くと結構な距離があった。その上、足の痛みもあって買い物をして戻るまでに思ったより時間がかかってしまった。周囲は少し暗くなりかけていた。

初め、ケンさんの自転車が倒れているのが目に入った。上向きになった前輪のスポークがカラカラと回っていた。次に気が付いたのはオレの自転車が無いことだった。そして荷物も一緒に消えていた。荷物にはまとまった金と着替えと地図と一通りの道具が入っている。ケンさんを探すと防波堤の裏側に血だらけになって倒れていた。驚いてオレは防波堤の階段を降り、ケンさんに問いただすと、まだ、半分子供のような顔つきの連中が、ゲームのようにバールやら木刀やらで疲れたケンさんを追い廻し、滅多打ちにし、その後、オレの自転車と荷物を盗んで行ってしまったと言った。

『浮浪者に間違われたんですかね。』やっとろれつの回る口でケンさんが言った。

傷は右足の大腿部が一番酷かった。ナイフでざっくりと切られ、血がどくどくと流れ続けていた。あせったオレは着ていたシャツを急いで脱いで、引き裂き、紐状にすると包帯代わりにしてそれで止血した。ケンさんがもう自転車をこぐのは無理だ。オレは動転し気が狂いそうだった。救急車を呼ぼうと携帯電話を見ると、最悪なことに電池が僅かしく無く、数回コールすると切れてしまった。オレはさっきのコンビにまで戻って助けを乞うのがベストだろうと思って行こうとするとケンさんがオレの手首を摑んだ。

「あと、数キロで内のやつの店です。どうか、連れて行って下さい。」

オレはケンさんのママチャリの後ろにケンさんを乗せて上半身裸で暗い国道を走った。足の傷と血のことを思う、早く何とかしなければ重大なことになりそうなのは素人目にも明らかだった。

オレは背後でケンさんが死んでしまうのじゃないかと思って、何度も声をかけたが、その都度、『ハイ。』と返事が返ってきたので、運転に集中することにした。口と目に小さな虫が入った。ただでさえ空気の少ないタイヤに男二人が乗っているのでスピードは上がらなかった。途中、諦めかけてヒッチハイクしようと自転車を降り、手を上げたが血だらけの男を抱えた上半身裸の奴など誰も乗せてくれるわけがなかった。

必死でペダルを漕ぎ、しばらくすると下り坂になった。思いがけずスピードがぐんぐんと上がっていき、細いトンネルを抜けた瞬間、ドン!パラパラパラ・・・と音がして辺りの空気が僅かに震えているのを感じた。

花火だ。

漁港が見え、彼方にちょうちんの灯りともの凄い数の人がひしめいているのが見えた。出店が軒を連ね、浴衣を着た女やお面を頭に載せた子供等がその前を右往左往している。少し離れた空き地にはやぐらが組まれ、音楽に合わせ盆踊りの踊り手たちが一心不乱に踊っているのが見えた。『ケンさん、もうすぐだ。』オレは叫んだ。

花火大会のため、人でごった返すその通りに着いた時、ついに自転車がパンクした。通りを歩く人達が一斉にオレ達を見たが、皆、努めて無視しようとしているようだった。そして数百メートル先に女のものと思われるラーメン屋の看板が見えた。

オレはケンさんを自転車から降ろし電信柱にもたせかけて座らせると、「待ってろ。」と、言って、走り始めた。最後に振り向いて見た時、ケンさんの顔は蝋人形のように真っ青だった。そして、ケンさんの背後にまたドン!と音がして一際でかい花火が上空一面に広がった。

オレは走った。たこ焼き屋の前を、お好み焼き屋の前を、金魚すくいや風船釣りをする子供等の前を。回る風車の前を。浴衣の女達の髪を結い上げた、なまめかしいうなじをかすめ走った。缶ビールで酔った男達の意味不明な奇声をくぐり抜けて走った。半裸で、ケンさんの血を所々につけ、髪を振り乱し、一心不乱にオレは走った。

店の入り口にはきれいな藍色で染め抜かれた暖簾に、ひらがなで「らーめん あゆみ」とあった。オレは暖簾を潜り、勢い良く店内に駆け込むと、中の女に向かって大声で叫んだ。

「冷やし中華 一つ!!」

 BGM  萩原健一 『祭ばやしが聞こえるのテーマ』


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