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文トレDAY75 48-恋愛編(1)鈍感の極み

『私は冬に住む人だから春の夢は見ない』
中学のころ映画鑑賞会があり、身体障害者が書き残した手記に書いてあった言葉をおもだした。
その儚い思いに中学生の私は胸を打たれた、その頃は若くて感受性も今の私の数倍あったのだろう、数日間その言葉が頭を離れなかった覚えがある。

ふと我を振り返る、こと恋愛というものは、仕事漬けの人生の中で封印というかその「気配」すらどこかに置き去りにしてしまい。私はずっと「冬の住人」だ。高校は工業で男子校、社会人になったあと、夜学で大学に通うが夜学は、ほぼ社会人大学的なところで、あまり異性との接点がなかった。まあ、そういう風に世の中を見てるからそうなるだけで・・・。男子校でも他の高校の女子と付き合っている人もいた。
私は彼らを「羨ましい」とは思わなかった、なぜなら全く違う人種だから当然だぐらいに思っていた。同じ空気を吸って生きているが住むレイヤーがちがうのだ。サラリーマンだったころは、やはりそれなりの危機感を感じ、結婚相談所のお世話になったこともあったが、どうも苦手であった。女性と会うとどうしても「仕事」モードになる。いつしかその「熱」はどうでもよくなり、仕事オンリーの生活になっていた。

会社を起したときはひどいものだった、家は堺市の地下鉄の駅から徒歩15分ほどの立地、職場からだと1時間強で家に到着できるのに仕事に没頭するがためにほとんど帰らず、帰る時間がもったいなくなり事務所に泊まっていた。しかし、あんまり人間的な生活ではないので近くにワンルームマンションを借りて自転車で通勤するようになっていた。正月も帰らず。ちょっと狂ったのように仕事をしていた。

あるとき、親戚のおばさんが見合いの話を持って来たが、まだ会社としての基礎的な売り上げがまだまだだったので、見合いに来てくれた。女性と親戚のおばさんには悪いのだが、それどころでは無いとお断りした。
とても普通の「つきあい」ができる自信がなかった。そんな身分ではないと思っていた。でも、こんな私に気を使ってくれるのがありがたかった。

畝山は飲むのが大好きだった。酒豪とグルメと言ってもいい。知り合いのスナックに毎日のように会社終わりに飲みに行ってた。私もたまに付き合いで行ったが、基本あまり酒が強い方では無いのでお酒の席は苦手だった。それでも多分月一回程度いってたのかも知れない。お店のスタッフ達とも知り合いになった。

ある暮れのころ世間は年末年始休業中だったが、私は会社で黙々と仕事をしていた。
ひっこりスナックのチーママが訪問してきた、高校生の女子と一緒だ、女子は、ママの子供だった。なんとなくではあるが、ママはシングルマザーのようである。私は素性とか繋がりについて全く関心がなかった。高校生のお子さんは学校になじめないでいるらしい、それで(なぜそうなったかは全く覚えがないだが)「舞妓」になりたいのでインターネットで調べて欲しいという。いきなりの訪問だったが、追い込まれるような仕事をしていた訳ではないので、ネットで検索する。このころまだスマホもなくインターネットを開通しているところが少なかった。一通り情報をあつめてプリントアウトして渡す。
お子さんはそのあと、直接の花街の置屋(おきや)に手紙を書いてプレゼンしてめでたく舞妓のなることができた。当時は、つてを頼って花街の置屋(おきや)・屋形(やかた)に紹介してもらうことでしか舞妓への道はなかっただが・・なかなか根性が座っている。

これ、つまらんものですけど。チーママが風呂敷の包みを渡した。中身には、おせち料理だった。それと、黒い手編みのセーターが入っていた。
インターネットでちょっと調べたくらいでこんな・・・・・。

私はなんて人の・・・特に恋愛の感情に鈍感なんだろう。
そうか、このチーママは私のことは好きなのかも知れない。
ようやく気づくのだった。


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