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文トレDAY56 25-独立・創業

1999年11月。デルタプラン設立。
デルタは、3つという意味から私が命名した。3つのプランニングができる会社という意味だった。
一つ目は私がやってきた照明のプランやデザインの仕事。
二つ目は畝山がやってきた、内装に絡むプランニングとデザインの仕事。
三つ目は、畝山の紹介でこの会社に参画した片山が行ってきた店舗の運営におけるプランとデザインの仕事。
以上3つの柱で創業を開始した。
代表は私、渡部茂一。畝山と片山は、取締役となった。
場所は大阪市北区神山町、なかなかよいオフィスだ。
T社の営業所から「せんべつ」で自分が使っていた机と椅子とドラフターをゆずり受けることができた。
自分でできることは何でもした。名刺のデザイン、会社案内の資料の作成、電話の手配、印刷の手配、トイレの掃除、トイレットペーパーの購入、自分の会社と思うとどんなに小さなことでも愛着が湧いた。

売上を上げるための努力はなんでもやった。年末に東京のケントさんはじめ
関係のある会社と大阪の取引先あわせて20名ほど招いて北新地でお披露目会を開催する。
出費は大きかったが、それなりの価値があると思っていた。

事務所は24時間利用可能を条件で契約していたので、連日深夜まで仕事、追いまくられるような忙しい仕事はなかったのだが、空いた時間は、3Dソフトの習得や、新しいスキルのために費やした。

そのうち、毎日に帰るのがほとんど「寝に帰る」だけになってしまったので、北区の同心にワンルームを借り、自転車通勤で通うようになる。正月も堺の自宅には戻らず、なにかにとりつかれたように仕事をしていた。

新しい試みとしてデルタで始めたのは、映像の仕事だった。東京の知人が日本でもかなりレアなことをやっていたので大阪でちょっと場所を借りてみせる「小展示会」をやったりした。

初の代理店からの受注
全く新規で営業展開を始めた映像の仕事が実を結ぶ。当初から関心をよせていた3Dの裸眼立体映像システムを開発し、運営をしているドイツの会社に訪問する。日本の代理店は知人の会社で簡単なデモステージも東京の九段にあったのだが、大型で運用されている状態を見て、ドイツの会社がどんなコンセプトでそれを作ったのか、それを知りたかったのだ。この視察旅行時はプロジェクトの気配すらなかったのだが・・・・
ケルンで3Dの裸眼立体映像の会社を訪問。ベルリンで開催されているレビューショーを見学。そのあとインスブルックでスワロフスキーの博物館で展示の状況を確認。オフでウィーンとプラハをまわった。一人旅だったが満喫できた。

帰国後1ヶ月後、広告の山通社から連絡があり、3Dの裸眼立体映像の装置を会社でデモすることになった。プレゼンで使ってもらえることは、聞いていたがそれ以上の情報はなかった。

それからさらに1ヶ月後、山通社から連絡がはいった。島根キラキラ博で3Dの裸眼立体映像の採用が内定する。
畝山が2日ほど徹夜で作ったステージモデルが効いたのだ。
我々3人は嬉しさを噛み締めた。
以前の職場からの流れで話が決まったものではなかったので喜びは大きかった。

某プロジェクトにてエンターテイメントの血統。
デルタになり、思わぬところから、思わぬ仕事が舞いこんでくるようになった。これは、アメリカのプロダクションからのお仕事だった。だんだんと英語の必要性を感じるのだが、忙しくてなかなか勉強する時間がとれない。
この仕事は、商品の販売や工事をおこなうものではなく、プロダクション側の日本人スタッフとして、このプロジェクトに参加するものだった。

照明の世界に入ったのはTEからだった、「アンカー」という言葉すら分からずに現場に放り出されてからもう14年も経過してた。思えばかなり進化した、今、ショーを作る側に立っている。
延々とステージでは、立ち位置の調整をおこなっているようだ。

強烈なSEがスピーカーを鳴らした、思わず我にかえる。


いつもの様にショーをチェックした後、現場から事務所まで移動するときにその事件は起こった。 移動は、現場が広いのでゴルフカートに乗って移動する。 プロデューサーが運転しディレクターと私が乗っていた。 施設内は工事中なので、今日はいつもと違うルートで移動していた。 ゴルフカートも靴の底が曲がるぐらいアクセルを踏み込めばそこそこのスピードが出る。 舗装前の道の砂利道をかなりのスピードで走って、ブレーキをかけながらハンドルを切るとドラフトする。
プロデューサーは、それを数回繰り返し、かなり楽しんでいる。 

やばい!と思った瞬間、坂道でゴルフカートは、横転した。スピードがたいして出ていなかったのと、工事期間中でヘルメットをしてたので怪我なったが、ゴルフカートのルーフはぐにゃぐにゃ。 事務所に戻るとさぞかしボスから怒られるだろうと思っていたが・・・。

拍子抜けした。

「あ~ぁ、またやったのね。」

ほかのスタッフたちも集まってきてガムテープとかでカートの修復。曲がったルーフはどうしようもないね。

これが、日本のゼネコン下で発生したらどうなるか?
想像するのも恐ろしい。

ここで感じたことは、彼らは単純な「アホ」では無いとことである。
エンターテイメントを創る人間は中身も自分が楽しむ事でいっぱいなのだ。

HAVE FUN がこんなに似合う奴らは他にいない。

 楽しませてあげようとか感覚ではなくて、
「俺がこれだけ楽しめたのだから、面白く無いわけが無い。」というプロの意識を感じたのだ。

この仕事が印象に残っているのは、エンターテイメントを制作する人と短い期間だったが、共に仕事ができ、考え方や精神の片鱗に触れることができたことだ。これは、墓場までもっていきたい私の宝物だ。




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