20220106 Thu. 早朝

0525 龍塾Discordサーバーにて

(前略)
要は認知科学を独自研究していたような形になる。さらにいえばメタ認知科学みたいなことさえやってた。メタはどうやら2段階までしか意味がなさそう、というところまでは直観した。
[04:32]
認知科学自体が「メタ認知」だからね
[04:34]
メタ認知は当然意味があるし、だからこそ認知科学というものが実際に成立もしてるわけだけど、数学基礎論があるのと同様に認知科学基礎論もなくてはならないと思うんだよね。つまりメタメタ認知ってわけ。それをやってたってことになるのかなぁ。どうしてだかわからないけど、なぜか「ひとりで全部解決しなきゃいけない」みたいな強迫観念があってね。
[04:38]
これを「言語」についても適用してしまったせいで(なにしろ「すべてを解決」って意志してたんでね・・・)、なんか言語力に関しては、自分で言うのもなんだけど常軌を逸したレベルにまで到達してしまったと思う。これは客観的な評価を得ることは期待できない(そもそもそのレベルになると評価できる他者が現代に実在するはずがないと思う。目指していた当のものが「あらゆる時代、あるいはパラレルワールドにおいて普遍妥当性のある真理」クラスのものだったから。)んで、まあ、つまり10年以上も「ずっとひとりで戦ってきた」わけさ。スピ的にいえば「ずっと悪魔と戦ってきた」って言えるし、ふつうに言えば「悪魔の証明を実行しようとしていた」ってなるかな。
[04:39]
(実際、英語母語話者で自閉でインテリの心理セラピストに英語表現についてアドバイスしちゃって、その内容に感謝されちゃったくらいだから)

なうたん — 今日 04:47
なんか思いついちゃうんでそのまま書き続けちゃうけど、俺さぁ、たぶん「エピソード記憶」なんてものは存在しないと思う。そもそも「記憶」とその「想起」は峻別されるべきであって、「エピソード記憶」と呼ばれているものと、認知心理学においてそれに対応させられている現象は、正確には「イメージング想起」であり、「記憶」は恐らく文字列(※この文字列というのが何語なのか、実在する自然言語なのかは流石にまだわからん)としてどこかの「場所」に(※これも流石にまだ、どこなのか、どういう場所だと描写するのが適切なのかまではわからん)表象されていて、その、「単なる文字列として表象されている(と見做せるような)記憶」の「想起の仕方」に「言語的なもの」と「イメージ的なもの」とがあって、前者が「意味記憶」、後者が「エピソード記憶」と呼ばれているだけだと思ってる。どうしてそういう錯誤が認知心理学において生じているのかといえば、恐らく、まあ簡単に言えば「それで現段階では学者内でコミュニケーションに不都合が生じていない」というだけだと思う。俺にはそうとしか思えないけどね。でも、東大の認知心理学のゼミでこの「記憶の定義に関する問題」を提起したときは、教授も(当然、学生も)「何言ってんだろう、この人」って感じだったね。にこやかに、「定義は大事ですね」みたいにスルーされちゃったよ。そんな学生時代でした。 (編集済)
[04:50]
だってさぁ、「エピソード」と「意味」って、そもそもなんかズレてない? ねじれの関係っていうかさぁ。「エピソード記憶 episodic memory」「意味記憶 semantic memory」っていう風に並列的に(同格のものとして)考えてよいとは思えないんだよね。言語感覚として、ね。
[04:54]
歴史上の出来事が「エピソード」ではなく「意味記憶」ってのがまずおかしいよね。だって、哲学者としては「現在」と「過去、未来」は全く別物であって、それって(哲学的には)常識じゃん? つまりさ、アイデンティティとかいう胡散臭い概念への懐疑とか、仏教的に「無我」「諸行無常」とかも考慮に入れるとさ(ヘラクレイトスの「万物は流転する」でもいいけど)、「自分の過去」と「歴史上の出来事」って本当に区別していいの?って思っちゃう。だって過去の自分は今の自分とは別人だし、たとえば「織田信長が私だったかもしれない」ということも哲学的にはふつうに考えてよいことだし。
[04:55]
あと、催眠とかそっち系の心理学(?)の言ってることとかも考慮すると、むしろ「主観的想起」と「客観的想起」っていう風な区分になると思うんだよね。 (編集済)
[04:57]
そっち系の人たち(催眠セラピーとかしてるような人たち)によれば、「主観的な記憶」つまり「自分が体験しているような形で想起される記憶」が、「客観的な記憶」つまり「第三者として他人事のように想起される記憶」に変化したときに「トラウマの治癒が完了した」っていうことになるらしいんだわ。
[04:59]
当然、この逆方向も考えられるよね。つまり、催眠術を悪用する人たちからすれば、極論、「織田信長であった私が本能寺の変で明智光秀に裏切られて焼き殺された」っていう風に「洗脳(記憶を刷り込む)」することも可能だろうからさ。
[05:00]
まあ、説明し出すとこのように延々と「論拠」が出てくるんだけど、それって要は(現代の認知心理学による記憶というものの捉え方が)「端的に誤っている」ってことだろうからさ、まあ俺が正しかったんだな、って思うよ。 (編集済)
[05:01]
けど、その「正しさ」って、現代にとっては正直、余計というか、ネタバレ的というかさ。喩えるなら、オリンピックで突然100m走を5秒で走っちゃう化け物が現れたらみんな萎えるでしょみたいな話。
[05:01]
ひとりで時代を先に進めようだなんて傲慢だ、ってことだね(本気でぜんぶひとりで「終わらせよう」としてた) (編集済)
[05:03]
でもさぁ、こんなこと、もう10年前からわかってたんだけど、なぜか今頃になって饒舌に語れるようになってきたんだよね。それって、語ってもいい時代になってきたってことなのかなってちょっとだけ希望を持ってる。(もし今ガーガー書いてるこの文章を丁寧に読んでくれている人がいたとしたら、その希望は本当にあったんだなってことになるし、超絶感謝だわ)
[05:09]
まあ・・・感謝と同時に、いや、むしろもっと強く(?)、「責任」も感じてるけどね。恐らくこんなことを仕出かしたのは大罪に他ならないから。もし本当に人類が追いついてきてくれたとしたら、それは同時に、多大な犠牲を払わせたことをも意味するだろうからね。これもなんとなく証拠らしきものは散見されるんで、まあ現状、俺がこういう状況に追い込まれているのは仕方がないことなんだなって諦めてる。 (編集済)
[05:13]
常識的な人(?)なら、もし自分がこういう時代を遥かに超えてしまうような「真実」を知ってしまったら、もっと象徴的な語りをしたり(小説にするとか。まあそれもやったけど)、日常的で些細なことの中に見出されるような(誰にとってもタメにしかならないような)ものとしてシェアしたり、あるいは逆に、暗号のようなもので秘密裏に語ったりするんだろうけど、なぜか俺はバカ正直に(ある意味「真理に対して誠実に」)ふつうの日本語とかで語るようになってしまったんだよね。しかも、何年もずっと継続してきてしまったし、語りにおける言葉の選択も精度が上がってきちゃってるから、もう歯止めが効かないや。 (編集済)
[05:19]
まあ、なんだろう、俺が立ち向かったものの中で最も強大な敵として立ちはだかったものとしては、「運命」「自由意志」と、その関係。あとは「世界観あるいはこの世界の在り方はこのようなものとして本当に一意的なのか?」の2つかなぁ。(まだあるかもしれない。)「運命と自由意志の関係」については、結論としては、「運命に従うことと自由意志によって行動することとは究極的には一致してしまうようになっている」「唯物論的世界観は単なる共同幻想であり、現実世界がこのようであり別様ではないのはデモクリトスの原子説が勝利したというだけである」ってなとこかな。
[05:20]
そんでもうさぁ、そこそこ目立つツイッター垢で「みんなで脱獄するしかない」とか「俺が原作者であり君たちにとっては異世界転生者であるということになる」とか公言しちゃってるんで、まあ、もう止めるのは不可能だと思う。この流れ。
[05:22]
いや、もちろん俺がこの(いまとなってはどうでもいい)「遺志」を投げ捨てて、素朴な幸せを本気で志向しさえすれば、ちゃんとふつうの生活に戻れるんだろうけど、それって原理的には可能ってだけで、むしろ「現実的には」無理(もっと大変)だと感じてる。

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