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【命名】幼名の復活

日本人の名前はもっと自由であって良い

まず、この話をする前にハッキリと言っておきたいことがある。私はキラキラネームを批判するつもりは毛頭ないし、むしろキラキラネームにまつわるいくつかの立場の中で誰に一番嫌悪感を抱くかと言えば、キラキラネームをバカにする立場の人達に対してである。あまり読者獲得だの人気優先だのという流れには乗っていなくて誠に申し訳ない。
ただ、やはり既存の命名規則や前例に無いと読みにくいというのは枝葉末節だと思うし、それを一生使い続けるということに関しては後述の理由であまりこだわる必要は無いのではないかと考える。過去には「悪魔ちゃん事件」などということもあったが、あれこそ周囲の人や社会が自重するべき類の問題だと私は感じるのだ。
また、上記のような事情で何らかの明確な意図を持った名前が否定され、当たり障りのない名前が付けられたとして、それは顕在化されないだけで悪魔ちゃん事件と等価値の悲劇の一つであると私は感じる。
それは確実に一つ、人に捧げられる祈りが消えてしまったということだから。

幼名の復活

私としては、命名による悲劇に対する答えは幼名の復活、これ以外に無いのではないかと考える。
人は育つときに親から呼ばれる名前がないと不便なのは間違いない。また、親からどのように見られているのか、子どもが受け取るメッセージとしての名前も必要だ。だから、その名前は親がつければ良い。
しかし、人がそれに一生縛られるというのはナンセンスだ。
人は育てられるのが終わったら、世の中に立つときの名前は自分で決めれば良いのだ。

名乗るということ

ここに名乗りという問題が生まれる。
名乗るというのは、自分の名前を自分で決めるということである。もちろん
「自分は親からもらった名前が気に入っている」
という人もいるだろう。そういう人は、その名前をもう一度自分につければ済むだけの話だ。
ちなみに外国の例を見ると、ほとんどの先進国で改名は本人が名乗り始めた時からである。国や州により法的な発効時点は異なり、大まかに言うと

・本人が思い立ったとき
・本人が宣言した時
・役所に改名の申請をしたとき
・他の人に初めてその名前を使ったとき
・新名で初めて公的な手紙を郵便で受け取ったとき

この辺りでその人は公的に新しい名になる。

かつてはどうであったか

日本では現在、戸籍制度というものがあり、簡単には変更することができない。が、出生、婚姻、死亡などでは変更が可能である。これに「本人の申し出による改名」が加わるということである。
ちなみに現在の戸籍が起票される前はどうだったかと言えば、それぞれの属している社会階層にもよるものの、元服というのが幼名を捨て、新しく大人の名前を名乗るきっかけになるのがおおよその通例である。ただ、歴史的にはこのスタイルが時間軸で見た場合の「日本式」のあるあるであり、今のガチガチの戸籍制度はまだ「150年前に始めたばかり」の新参の制度であると同時に、文明開化で入ってきた「近代風の世界スタンダード」などではないことは、先ほども述べた通りである。

アイデンティティと自己決定権

そもそも何故、そうまでして現行の制度を否定して、また幼名などを復活させなければならないのか。
それは名前というのはその人のアイデンティティそのものであり、その人のアイデンティティは一義的にその人本人から切り離すべきではないと考えるからだ。
その人のアイデンティティの根幹に関わることは、その人の自己決定権に基づいて決められる。
こんな当たり前のことが出来てないの、私はヤバい国だと感じます。

命名という魔術

元より命名というのは魔術的な意味でも最も重要視される行為である。今の日本人がこんなにみじめな奴隷としての生き方しかできなくなってしまったのも、人間が本来持っている魔法を使えなくなってしまったからだと私は思う。
魔術に詳しくないものは、プログラミングを学ぶといい。「変数を宣言する」と言うことは、魔法の起点なのだ。

P.S. 難読名前に関して

キラキラネームへの批判の中に、名前の難読性を挙げる人たちがいる。これに関しては私が言うまでもなく、一つの社会的な答えが出ているのではないか。
「日本語の固有名詞は、本人に聞いてみるまで読み方は分からないと処理するしかない」
これが結論だろう。
予測は予測でしかない。
本当のところは本人しか知らないのだ。

#社会 #魔術 #名前

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