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心地よい音

余韻。
神社での安全祈願、祝詞のあとの「鈴祓」の鈴の音がとても氣持ちよかった。
ずっと聴いていたいような清らかさ。
「このなかにずっといたい」って思った。



子どもの頃から数年前まで
同じ「鈴の音の夢」を見ていた。
持ち手が長い鈴で、子どもの頃はそれが何かわからなかったけど、20代後半で同じ夢を見たとき
「神社の鈴だ!」と氣づいた。
シャンシャンシャンシャンと、夢で祓われている。その夢を見て何かが起きたりすることはないけれど、夢のなかで現実には鳴ってない鈴の音がはっきりと聴こえるのは一体どういう原理なんだろう、といつも思う。




最近、毎日YouTubeで「純正律」の音を聴いている。
前にも書いたけど、わたしはピアノや音楽のことはよくわからない。
ただ「平均律」と「純正律」と聴き比べたときに
「思い出した」というか。
そんな感覚になった。「懐かしい」と。
こっちが本来の、そうそう、あれ?なんで今まで忘れてたんだろう、みたいな。
「純正律」を知らなかったはずなのに自然とそう思った。もちろん習った覚えもない。
圧倒的に「平均律」の音楽に慣らされているなかで「純正律のこの音、めっちゃ懐かしい」と、何か、あたたかいものに包まれた感覚だった。

「平均律」「純正律」という概念を知らない状態で「懐かしい」と感じることは不思議でしかないのだけど。


細胞レベルで「記憶」してるのかも、と思った。


氣になって調べていくと
民族音楽、伝統音楽は「純正律」らしい。
もしかしたらわたしそれで、三味線に惹かれたのだろうか。「潜在意識」だとか、そういう部分の話かもしれない。不思議。
理屈でなく、本能的なところ。
雅楽や、地元の祭りで神社に奉納するお囃子に、子どもながらにただならぬ憧れがあったことも、学校で習う「音楽」(=もちろん平均律)やピアノにほとんど興味がわかなかったのも、今なら納得できる。
おもしろいのは、地元のお囃子を奏でる楽器に「三味線」はなかったことだ。
三味線を身内の誰かが弾いていたからだとか、友人がやっていて、ということもない。
有名な「某兄弟」の演奏にも興味がないまま、なぜ三味線なのか。自分でもはっきりと、その理由をわかっていない。
ただ、「やりたい」とつよく惹かれた。
だから、理屈ではないのかもしれない。
「顕在意識」には理解できない、深い深い部分で欲している、何か。




本当の歴史や文化を奪われても、隠されても、
一部の権力者の都合のいいように何もかもが改ざんされても。
どれだけ「嘘」を吹きこまれて、
からだにいいものを奪われて毒を与えられて
弱体化させられても。
「分離」「二極化」「対立」を煽られても。
日本人は、ちゃんと、しぶとい。
そうやって弱らせないといけないぐらいに、
日本人の魂は、清くて逞しい。


なんとなく、そんなことを思った。



鈴の音がまだ、脳内に響いている。

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