見出し画像

JAPF卒業文集(人生の青春)

いつもJAPFのnoteをご愛読いただきありがとうございます。今回は、関西支部のばっさーこと和泉が担当します。というよりnote管理している方にお願いされて、僕もこういうの書くの好きなんで書かせてもらっている所業であります。いつものnoteの書き方と違うかもしれませんが、ご了承くださいね(*^^)vテヘッ

春と言えば別れの季節!僕もJAPF学生委員会との別れを告げなければならないことになりました(´;ω;`)グスン

僕は、2018年夏期のツアーに参加してそこから学生委員会として活動してきたので2年半もいましたΣ(・□・;)エッ 僕としてはあっという間だったんだがな…楽しいことってすぐに過ぎるから残酷(´・ω・`)ショボーン

そもそもツアーに参加したのはアンコールワットに行きたいから!なんて言う単純な理由です。今いる学生委員会の人も初めはそんな単純な理由で参加しています。(と信じたいのはここだけの話)少し威張らせてもらうと世界遺産検定3級を当時持っていたんで(現在は2級まで昇格。1級はあと数点で落としましたorz)意味あったでしょwと茶番はさておき実際行ったら今まで持っていた常識に疑問を持ち始めてしまいそれを次に伝えていきたい!勉強したい!と思い学生委員会に所属することになりました。後、皆さんはもうお忘れかもしれませんが、関空沈没事件(台風で空港島が沈み、連絡橋がタンカーによって破壊されるというヤバイ事件)が丁度行ってる最中に起こってしまいまさかの日本帰れない疑惑に遭いました(´・ω・`)ショボーン 結局は、名古屋のセントレアに便が移管され事なきことを得ましたwその時に引率の方の冷静かつ迅速な対応を見て自分もああなりたいというあこがれも所属理由になります。後日談ですが、この一件で関西エアポートという運営会社に対して強い憎悪が生まれ、憎しみの塊のエントリーシートを送りました(;^_^(*絶対マネしないでね)逆にセントレア好きになってしまい半年後に遊びに行きました(変態行為)

学生委員会2年半もいると色々なことがありました。実は、僕の代くらいが最盛期で名古屋支部(現在関西支部に統合。近鉄通ってるから名古屋は実質関西と思っておきましょう(;・∀・)ㇵㇵ)、東北支部(現在関東支部に統合。JR東日本区間だから東北も関東…は無理ありすぎ説(;・∀・)ㇵㇵ)とかあって賑やかでしたね。ファクター(チームみたいなやつ)も引率補佐やSNSもあって一つのツアーのためにたくさんの人が動いているんだなという実感がありました。

ちなみに引率応募はみんな出していて狭き門でした。僕は結局できなかった(´;ω;`) 学生委員会として唯一やり残したことになってしまいました。それも同ツアーの友達が引率したからなおさら(´;ω;`)

と考えるとコロナでツアーできなくなって人数が減りまくった今は非常に厳しい状況ですね…僕の所属していたよさこいサークルも解体してしまいました(´;ω;`)(後輩がサボっていたようで僕は怒鳴り蹴散らしました。あんなサークルに愛も情熱もないやつらに引き継いだのが間違いでした。)これからJAPF学生委員会はどうなるのでしょう…

てなことで、国際問題に興味あるよとかなんか活動してみたいという大学生の方はJAPF学生委員会へ入ってくださいね~(o*。_。)oペコリン  唐突な宣伝でしたw

僕の話に戻るとずっと企画班で活動していました。最初は全然できなくて先輩方に迷惑をかけていましたが、徐々になれていって周りまで見れるようになりました。今を思えばようここまで成長できたもんだなとしみじみ思っています。何が言いたいかというと諦めずに努力することは大切だよということかな。この活動のおかげで就活ではエントリーシートには書けるは、グループディスカッションは無双するは、面接そこまで緊張しないはいいことしかなかったです。JAPF学生委員会の先輩が大学生は無敵と言っていたんですが、それは行動次第で有能か無能か分かれるということを付け足して置きます。間違えてはいけないのは失敗することは無能ではないとういうこと。何もしないことが無能です。折角大学生という有意義な時間があるので勉強よりも自分のスキルアップのために使ってみてはいかがでしょうか?あっ、僕みたいにやりたいこと詰め込みすぎて死亡フラグたてるのだけはやめておきましょう(∩´∀`)∩エヘヘ

最後にJAPFの思い出について語っていこうかなと思います。

JAPF学生委員会は一生忘れることのない最高の思い出

の一言につきると思います。僕はかなりのひねくれ者ゆえ話が会う人や友達が少ない人物でした。対人関係に悩んでいた時期もありました。でもJAPF学生委員会はそんな僕を受け入れてくれて仲良くしてくれた場でした。多分自分でアクションを起こせる人しかいないところなのでよりがあったんでしょう。色々な専攻分野について学ぶことができたこともいいところだったかな。楽しいことも苦しいこともみんなで力を合わせて乗り越えたからこその団結力があったことも最高の思い出になる要因かなと思います。僕たちは日々の活動以外にも東北の被災地に勉強しにいったり、他地方で現地メンバーと遊んだりとプライベートでも親交が築けることもいいことだったな。というかみんなフッ軽すぎなんだよな(誉め言葉)一つ心配なのが僕が去ってから盛り上げ役がいなくなる説があるということ。よくも悪くもテンション高めだったのでそれにつられて全体としても明るかったのかなと個人的には思います。コロナ下だから気持ちが下がりやすいと思いますが、残るメンバーが気落ちしないことを心から願っています。時間があれば手伝おうと思います。


2年半くっっっそお世話になりました!!!