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信号待ちでパン屋を見かけて。

先日お世話になった方へお礼をしようと車を走らせていた。目的地までは30分ほどかかる。

コンビニの袋を手にぶら下げている人やランニングでキラキラの汗を流す人、子供たちは小さな自転車にまたがってずいぶん楽しそうな様子だ。

正直に話すと、私が子供のころは学校が休校になるのはただのラッキーだった。沖縄の場合は台風がその典型的な例で、逃げられない被害や自分の身の安全など親にどれだけ言われようが、心底理解していたとは言い難い。親の仕事の都合など気にするはずもない。学校が嫌いだったわけではないが、遊べるのがただただ嬉しかった。

話が逸れたが。

信号待ちでちょうど右手側におしゃれなパン屋さんが見えた。
緑色の看板でなんだか分からないアルファベットの文字が並んでいる。

いつまで経ってもオシャレな店の横文字が読めない。(これは完全に私が悪い)

駐車場には軽自動車が一台止まっていて、入り口からきれいな女性が出てきた。

入り口の目の前に車が止めてあったから歩く姿をわずかしか見れなかったけど、足取りがなんだが軽そうだ。

それが確信に変わるまでほんの数秒しか要さなかった。

彼女は車内に駆け込むなり、すぐに袋からパンをだし、美味しそうにほうばっていた。
車に乗り込んでから食べ始めるまでの時間を考えるとどれから食べ始めるか決めながら購入していたに違いない。

うっすらとしか見えなかったが、明らかに幸せそうだ。

やっぱり人が食べ物を美味しそうに幸せそうに食べる姿は気持ちがいい。

恐らくこのパン屋さんの人も嬉しいだろう。店舗の大きさの都合もあってか、女性が意図的に車内を選んだのかは分からないが飲食に関わる人が目の前で自分の作った食べ物を美味しい美味しいと言って食べている様を見ればそうとう幸せだろう。

口に出さずとも表情が幸せそうであれば良い。
だからじゃないが自分が食べる立場でもなるべくそうやって食べたいなと思う。

パン一つでも幸せな時間は十分提供出来るし、逆の立場でも幸せを感じることが出来るっていいよな。

世の中まだまだ捨てたもんじゃない。

ブランド物のバックでもなければ、高級車でもなく、とことん現実に近いところで感じる幸せは今こそ大切にすべきだと思う。

もちろん高級品だって現実なのだが、遠くにある欲望ではなくもっと近い距離感にあるものという意味だ。

と、ここまできてハッとした。

信号待ちのわずか数分の間にこんなに心がほのぼのしたことなんて今まで一度もなかった。

信号待ちなんかイライラするには持って来いの時間である。

なのに、、、、

こんな現象が起こった原因は多分書き始めたからだろう。

そういえば、

作家吉良淳之介「街角の煙草屋までの旅」のように、
タバコを買いに行くまでがもうすでに旅なのだという発想がすごく好きである。

会社に出勤する時も会社の中でも帰り道でも些細なひとときでさえ人は何かにめぐり逢うものだと知れる。

そしてミスターチルドレンの桜井さんが作詞したこの曲。

「横断歩道を渡る人たち」もすごく素敵です。


目の前を横切ろうとする           その老人の背中はひどく曲がっていて     歩く姿をじっと見ていると          足が不自由であることがわかる
かばい続けてきた足のせいか         それとも
思うように動かぬ現実にへし曲げられた心が
背中まで歪めているのだろうか?       横断歩道を渡る人たち
僕は信号が変わるのを待っている
昨日の僕が 明日の僕が
今目の前を通り過ぎていく          目の前を颯爽と歩く             その女のスカートはひどく短くて
ついつい目が奪われてしまう         強い風でも吹かぬものかと
そんな視線に気が付いたら          きっと彼女は僕を睨みつけてくるだろう
「自分の為にしてるだけ」だと
「誰かの気を引きたいわけじゃない」と    横断歩道を渡る人たち            僕はハンドルを握り締めて見ている
昨日の僕が 明日の僕が
今 目の前を通り過ぎていく         イライラした母親はもの分かりの悪い息子の手を引っ張ってもう何個も持ってるでしょ!?と   おもちゃ屋の前で声を上げている
欲しがっているのはおもちゃじゃなく愛情で
拒んでるのも「我慢」を教えるための愛情で
人目も気にせず泣いて怒って         その親子は愛し合っているんだ
        横断歩道を渡る人たち
僕はフロントガラス越しに見ている
昨日の僕が 明日の僕が
今 目の前を通り過ぎていく         ギターケースを抱え歩くその少年は仲間と楽しげに話している好きな音楽の話か        それとも好きな女の子の話か?
そのギターで未来を変えるつもりかい?              それならいつか仲間に入れてくれ
僕だって何もかもをもの分かりよく 年老いたくはないんだ横断歩道を渡る人たち
僕は信号が変わるのを待っている
昨日の僕が 明日の僕が
今 目の前を通り過ぎていく
昨日の僕が 明日の僕が
今 目の前を通り過ぎていく

私が特に好きなのは親子のやりとりがある場面。

おもちゃ屋の前で駄々をこねる子供お母さんとのやり取りなのだが、その場面を「愛し合ってる」と感じることが果たして出来るだろうか?

日頃目にする何気ない瞬間をどう表現するか?どう言葉にするか?を意識するだけでももしかしたら気づかない幸せに気づけるようになるかもしれないし、意識すればこそ味わえる感情があるように思う。

私がnoteを好きな理由はそんなユーザーさんがたくさんいて、文章の上手下手を関係なしに一生懸命書いた作品の発表会のような雰囲気があるからかもしれない。

子供っぽいと思われるかもしれないが、童心があるからこそクリエイティブであれる。

いい大人が遊ぶ姿はそれはそれでカッコいいのだ。

こんなご時世、大人が子供顔負けの本気で遊ぶ姿を見せてやらないで、子供達が大人になった時に、困難をどう乗り切らせるつもりなのか?

今置かれている現状は人それぞれだと思うが、この瞬間も日本にも、たくさんの人が産まれているのだ。大人は常に子供達に見られていると思えばダサい格好は見せてらんない。

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