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死んでからではもう遅い。

ネットでの誹謗中傷が話題になっていて、個人的にはその方がもう笑うことも泣くことも出来ないという事実がとても悲しくて。ネットで叩かれたことなんか1度もないけれど、過去にいじめられた経験があるから、「ことば」で人が死ぬ可能性があることくらいは小学生の時に身に染みて学んでいる。

「何気ない一言で誰かを傷つける可能性がある」ことを知らないわけではないと思うんだけど、むしろ知ってるんだと思うんだけど、せっかく覚えたたくさんの日本語をどうしてそんな使い方してしまうんだろう?と思ってしまう。

羨ましいの語源は「うら」を「病む」ことからきているそうだ。誹謗中傷が生きがいになっている人たちは、羨ましさ、妬ましさなどもいっぱい抱えているのだろう。自己肯定感がどん底にある。

なぜ、わざわざ自分の貴重な時間を割いてまで人を傷つけるために文字にしたりことばを発したりする必要があるのだろうか。

私にも家族や友人、恋人など大切な人がいるように、だれにだって大切な身内はいるのに。「叩かれる覚悟」なんて、文化的教育の欠如でしかない。

表に出る人たちは最初から叩かれるために出るわけじゃない。自分のためであれ、社会のためであれ結局命を燃やしてやりたいことがあるから出るのであって、最初から叩かれる覚悟がある人だけが出るわけじゃない。

「表に出てお金いっぱいもらってるんだから叩かれることくらい我慢しろ」は超絶意味不明である。

偽善が悪だと言う人もいるが、私は全くそうは思わない。
インターネットで有名人に嫌味混じりの「頑張ってください」とメッセージを送れば、それが死ぬほど嬉しくて何があっても頑張れる!そう思う可能性だってじゅうぶんある。

へんな話しに思われるかも知れないが、「そんなつもりじゃなかった」でとおる話しではないのだ。昔いじめられた時も、しかとされ、声をかけてもらえたと思ったらキモいやら死ねやらのオンパレードで、「そんなつもりじゃなかった」なんて言われてもどんなつもりだよ!笑
と言いたくなる。

ネットで見られる本当に目も当てられないような誹謗中傷だって同じ。そんな暇があるなら、自分の大事な人にあったかいことば投げかけてやりなよ。と思う。

気に入らない芸能人やインフルエンサーを口撃してる暇があるなら、お父さんでもお母さんでも彼女でも彼氏でも友達でも兄弟でもいいから、たわいもない話ししてる方がよっぽど幸せだろう。

ことばに善悪なんかない。結局使う人によって色付けられていく。それにことばは投げるものじゃない。相手の手に直接渡すものだ。

SNSが有名人との距離感を近づけた感覚もあるが、実際は違う。一般人が距離を測れるようになって、それを保てるようになっただけだ。有名人がただただ晒され、一般人が距離感を保ったまま自由につめたり離れたりしている。

故に自分の安全性が確保された距離で有名人を観察し、隙を見つけては攻撃する機会を伺っている。汚いことばを浴びせては木の影に隠れる。そんなことを繰り返している。

悔しいが、私ひとりではどうすることもできないし、これからも人間全員が良い人でいれるわけじゃないのだけれど、せめて、言葉についてたくさん勉強して、頑張ってる人を心の底から応援したり、誰かと力を合わせて守ったりできたらいいなと思っている。

偉そうに聞こえるかもしれないけど、これでも高校を卒業するまで、死に物狂いで野球を頑張ってきた。
甲子園にも出れなかったし、夢だったプロ野球選手にもなれなかった。

だからじゃないが、表に出ている人たちはもっともっと努力してるんだろうと思える。負けた人間だからこそ手にできる「敬意」もある。

面白い芸人さんを見ても、ゲラゲラ笑うというよりは、「すげぇ」となってしまう。芸人さんの本望ではないかもしれないが。

人前に出て、芸を披露し結果を残すことがどんなにすごいことか。

これはもちろん芸能人に限ってのことではなくて。身近なところにもそういう人はたくさんいる。

そういう人たちにちゃんと敬意を示せるように、やっぱすげぇなって言えるように納得ができるまで黙って積み重ねていくしかないと思う。結局自分の人生を一生懸命生きるしかない。他人についてどーのこーの言ってる間に死んでしまう。

私にはこの問題がSNSやネットの問題だとは思えなかった。文化的なことも含め、私も改めて「生き方」や「言葉」について考え直してみたいと思う。二度とこんなことが起こらないように。

死んでからではもう遅い。


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