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地に足つくことなく、ふらふらと走り抜けた。

〜自分の過去が死ぬほど嫌い〜

22歳のときに、地元おきなわを飛び出して香川県の高松市で働くことになった。

人生の転機だった。

なんのスキルも知識も経験もなかった僕は、知り合いが1人もいない状態からのスタートに正直わくわくしていた。

自分の手で作り上げてきたどうしようもない過去を1日でも早く無いものにしたかったのだ。

罪を犯したことはないし、高校生まで部活漬けで、彼女だっていた。充実してなかったわけではない。でも何故か自分の過去が好きになれない。同時に、その時の自分も好きではなかった。

地元を離れれば同時に過去を捨てれると本気で思っていた。新しい自分で新しい人生を生きていけると。

自分の過去がなぜそんなに嫌いなのか?

自分に向けて何度か質問してみるのだが、腑に落ちる解答が得られない。それはたぶん自分に嘘をついてるからなのだ。

〜白紙〜

「へぇ〜!おきなわ出身なんだ!」

出身地を問われればどこの出だろうと同じようなリアクションがもらえ、同じような会話展開が待っている。人によってはその「お決まり」とも言えるその会話展開がかなり退屈だと思うかもしれないが、僕にはそれすらもありがたいことだった。繰り返される自己紹介がいつも新鮮なのだ。

質問者全員が私のことを知らない。これまで失敗してきたこともややこしい人間関係も知らない。逆に頑張ってきたこともちょっとした成功も全部知らない。

これまでの僕は、、、、、

真っ白な紙に絵を描いてみたものの、気がつけば自分の思ってたのとかけ離れていて、取り返しのつかない絶望感を味わっていたり、ボタンを思い切りかけ違いしてたり。

ふり返るといつもそんな状態だった。

だけど、、、、
誰も知らない土地に足を運べばその紙を捨ててまた新しく描ける。そんな感覚だった。

逃げたとも言えるな、、、、

〜からっぽの人間〜

高松に行ってからは、とにかく楽しい毎日だった。出会う人も出会う仕事も全部が新しい。

ただ、、、、いくら新しい人生を生きようとしても僕自身に中身がぎっしりと詰まっているわけではない。知識も経験もスキルもない。それらを手に入れる過程すら踏んでないので、からっぽなのは当たり前といえば当たり前。

あるといえば劣等感と自己嫌悪くらいだった。

肉体だけが存在していて僕自身はいないに等しかった。

〜ふらふら〜

いろんな意味で毎日ふらふらだった。
飲食業の仕事だったので、終わるのは深夜2時ころ。そこから借りてきた映画をつける。コップいっぱいに氷をパンパンに入れて、スーパーで買った安いウイスキーをなみなみ注いだ。

毎日朝まで飲んだ。寝るときは潰れるときだった。宅飲みは果てしない。ワンルームの小さな部屋でベッドの中から映画を観ていた。

毎日毎日そこが酒場でそこが墓場だ。

起きたらいつもふらふらだった。

コップにウイスキーを注いでいたのではなく、からっぽの僕自身になみなみ注いでいたのだ。

〜それでも走る〜

げろげろの状態で毎日突っ走っていた。
仕事中に吐くこともあった。
頭ぐらんぐらんの足元ふらっふら。

最低である。

とにかくいろんな意味で出し切った。
ゲロも体力も。明日のことなんか考えることもなく「今」だけが全てだった。
うぉおおおおおおお!!!!!と口にはしてないがそういう心持ちだった。

バカである。

地に足つけて地面を噛みしめながら着実に一歩ずつ進んでいたわけではないが、それでも確実に前に進んでいた。足を止めればその場でパタリと倒れていただろう。

だけど若いってそんなもんだと思う。自分の過去が死ぬほど嫌いだった僕にとってはじめて納得出来る5年半だった。

だれが見ても上手な生き方ではなかったが自分で納得できればそれでいい。そう思えるようになってからもっと昔のことも少しだけ認められるようになってきた。

自分の過去が嫌い=今の自分も嫌いという公式が崩れたような気がした。

その瞬間肋骨の檻に閉じ込められた心臓が少しばくばくしたのを覚えている。結局は全部が自分次第なのかもしれない。環境を変えてみたり。

勇気がいるけど、

昨日の失敗も明日いい日になりますようにという願いも全て捨てて、また今日も目の前だけを見続ける。目の前だけを一生懸命に生きてみる。

どれだけカッコ悪いと言われても、自分にとってはその方が意外と幸せかもしれない。

なんとて、、、、

大事な「今この瞬間」が過去の延長線上にある必要はない。

他人の人生を生きてしまうことより怖いのは自分の過去に囚われ続けて生きることだと思う。

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