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ありのままでいい。とそんな簡単に言われましても。

自分につく嘘と他人につく嘘と天秤にかけたとしたら果たしてどちらの方が「悪質」なのだろう?

そもそも、「悪」として認識することがおかしいのかもしれないのだが、少なくとも嘘は悪いものだと教えられてきた。

そしてそう思っていた。

自分につく嘘

いつも周りの目に良く映るよう、ある種の「演技」をしていたように思う。

ただ、一つだけ分かっていることは、私はそんなに真面目でキレイな人間ではない。

ヒトの宿命ともいえる、あらゆる人間関係のしがらみを考えれば確かに、ヒトにどう見られるかは大切だ。

それを無視したおかげで、いじめをくらったこともある。

「ふつう」の生活さえ許してもらえないのだ。

多数決の世の中で多くの「評」を獲得するにはまず嫌われないことが生き残りのカギだと学んだ。

だからこそ、学校でも職場でも、心を許せるはずの家族にさえ本当の自分を隠し、可愛がられるように振る舞ってしまう。可哀想だと思われても仕方ない。

人間社会で「誰にも必要とされない」が意味するものを「生きてる価値がない」と解釈してしまうのも私は少しだけ理解できる。

しかもそこを持ちこたえたとしても手にしたい幸福との距離があまりにも遠すぎるのだ。

だからといって、正直に生きたところで全ての人間が受け止めてくれるわけではない。

ー 「ありのままでいい」

身近な人にそう言われたとしても、
たとえそれで心のふたが外れたとしても、
「嫌われたくない」という奥底の自分が勝手にふたを閉じてしまう。

そうやってまた偽りの自分を演じはじめる。

この無限ループにはさすがにうんざりしてしまう。何度も「私は私らしく」と言い聞かせるうちに気がつくと本当の自分を見失っている。

誰かに助けを求めても、最適解なんか出してもらえるわけがない。それは風邪を引いて病院に行ったものの、嘘の症状を伝えてしまえば、正しい薬を出してもらえないのと同じなのだ。

病気の例に例えると、そんなバカなこと誰がするかよ!!と思ってしまうが、ヒトはなぜか自分に対しては平気で嘘をついてしまう。

他人につく嘘

他人につく嘘については言うまでもなく「悪」だと言いたいところだが、これがなかなかひとすじ縄でいかない。

興味深いのは他人のことを傷つけたくないが故に考え抜いた挙げ句つく、「優しい嘘」もあるところか。

相手のことを本気で想うなら、たとえそのとき傷付いたとしても、本当のことを伝えるべき。という意見もある。優しい嘘なんか本当の優しさではないと。

ただ、仕事の場合(特に接客業は)相手がお客さんになると信じられない数の嘘をつかなくてはならない。

それは気分良く過ごして欲しいという優しさからくるのか、怒らせたくないという保身からくるのかは分からないが、前者の場合の嘘を「悪」と捉えてしまうのはいくらなんでも幼すぎる。

「たてまえ」と言うこともできるが。

仕事やスポーツ、パートナーなどあらゆるコミュニケーションシーンをふたつの歯車とした場合、その潤滑油となるのは「嘘」だったりもする。

相手がかなり落ち込んでて、それを元気づける為につく嘘だってある。

自信が無さそうな部下を勇気づける為につく嘘も。

他人につく嘘は救いようがあるが自分につく嘘には、、、、、

他人につく嘘に関しては、様々な状況を鑑みてなるべくいい方向に進めるように出来る。

特に、同じゴール、より良い結果を目指している場合は嘘のおかげで先に進めることだってある。
もし仮にバレたとしても、同時に思いが伝わっていれば、自分の為を思って...........となることもある。

ただ、自分につく嘘はそれが出来ない。

嘘をついた瞬間に嘘をつかれたと本当は気付いているからだ。それは同時に、自分の中に葛藤を生み出し続ける。

そのしんどさは本人にしか分からない。

どうしたらいいのだろうか............

確かなのは、自分につく嘘の影に隠れているのはいつだって保身だ。不安だったり、これ以上傷つきたくなかったり、ええ格好に見られたかったり嫌われたくなかったり。

見方を変えれば、「正直者」であるということは他人に嘘をつかない人間のことではなく、自分に嘘をついてない人間とも言える。

「自分に正直に生きる」にはたくさんの勇気が必要となる。

ただ、私は「嘘」をこの先の人生でゼロにすることは不可能ではないかと感じている。

価値観の変化するタイミングで、必ず過去の自分との矛盾に出会うことになるからだ。

人間は誰しもが矛盾を孕んでいると思っているし、自分に対して一度も「嘘」をつかずに生きられるほど人間社会は簡単じゃない。

だからこそ、正直に生きようとするほど辛くなるのではないか。

ー 私、本当は................

と、振る舞っている自分と本当の自分と二人出てきてしまうのなら、仕方ないと割り切るほかない。

それすらも認めず、排除するのは「自己死」を意味してしまう。

完璧な人間なんかいないのだから、全てが「自分である」と受け止めて、自分の矛盾も他人の矛盾も許しながら共存していくしかない。

そもそも人間が不完全であるのだから、その集合体も不完全なのだ。ぐちゃぐちゃの社会でぐちゃぐちゃの自分が生きていくのだからそりゃもう人生ぐちゃぐちゃで当然。

虚構で創りあげられた世界で生きていくのだから、「嘘」も含めて自分の物語を創りあげていくしかない。どれだけ可哀想と思われたとしても。

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