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自粛中のぐうたら生活に焦りはじめまして。

自粛が続いてだいぶぐうたら生活になってきた。つくづく、自分には甘いなと思う。

明日は7時に起きようとあれほど誓ったはずなのに、なんのためらいもなく目覚ましを止めて二度寝する。
朝一番の勝負に負けるとその後も連敗ムードが漂い、大方予想どおり負け越して1日を終える。

社会に飛び出した頃に描いてた理想のビジネスマンにはほど遠い。というかカケラもない。

外に出て人目に晒せれるというだけでどれほどの理性を保っていたのかと驚くこともある。

家にいれば誰からもなにも言われないが故、常に自分との戦いを強いられる。

そして常に勝てない...........

僕はこういうときに強引にポジティブを持ち出すクセがある。
どれだけ自分に負けたって、完璧な人間なんぞこの世に1人としているわけがない!と言い聞かせ納得してしまう。

これにはもちろん根拠がないわけではない。

地球は92の科学元素で成り立っているらしい。どんな複雑なものも、たったそれだけで出来てしまう。元素は全ての物質を構成している要素のことだが、特に、重要なのは、カルシウム、酸素、炭素の3つ。

カルシウムは歯や骨を作り、酸素は呼吸をするのに欠かせない。そして炭素は身体を構成するのに欠かせない有機分子すべてに必要で、これらの元素はお互いに結びついたかたちではよく目にするが、単体で目にする機会は滅多にない。

元素が単体で目にすることがない理由は他のものに反応して姿を変えてしまうからだ。

元素同士が反応すると新たな物質が生み出される。

屁理屈にも聞こえるが、元素レベルで考えると結局何かに自分を付着させて生きていき、刺激があればすぐに変化してしまうのが人間なのだ。それは生き残るための本能とも言える。

次は少し角度を変えてみる。

フランツ・シューベルトのピアノ・ソナタを完璧に演奏することは世界で一番難しい作業らしい。

4つの楽章をならべ、統一性ということを念頭に置いた場合、「完璧」には決してならないそうだ。
様々な名ピアニストがこの曲に挑んだけれど、そのどれもが目に見える欠陥を持っていると。

なぜか?曲そのものが不完全であるからだ。
ロベルト・シューマンはシューベルトのピアノ音楽の良き理解者だったそうだが、それでもこの曲を「天国的に冗長」と評した。

冗長(じょうちょう)とは長たらしく無駄があることだ。

不思議のなはなぜそんな不完全な曲に多くの名ピアニストが挑むのか?

私はもちろんピアニストでもないし、音楽に携わったこともない。学校の音楽の授業でさえあまり記憶にない。

絶対音感が死ぬほど羨ましいのだが、「ミ」の音さえ当てれるか不安だ。

絶対「ミ」くらい与えてくれてもいいだろうに。

だから完全な想像だが、一つだけ言えるとしたら、ある種の不完全さを持った作品は不完全であるが故に人間の心を強く惹きつける。少なくともある種の人間の心を強く惹きつけることではないだろうか?

もちろん完璧でありたいと思うことはあるのだが、仮にそんなものは無いと定義すれば違う道を進める。

自分の中にある大きな欠陥を一つの元素として大事に扱い、死なすことなく存在させていれば別の元素と科学反応を起こす可能性もある。

同じ人間がだれ一人としていないということがどれほどの可能性を秘めているのか考えると妙にわくわくする。

不完全であること、それが限りなく自然体であり、自然体であることが美しかったりする。

自分はダメ人間だと気に病む必要はない。あなたを叱っている人も結局どこかでダメ人間なのだ。私は完璧だ!と言い張る人間が出てきたら、最新のロボットだと疑おう。

ー 平熱は何度ですか?と聞けば

ー ワタシニネツハアリマセン。

と答えてくれるだろう。

怒って腹を立てたり、嬉しくて涙したり、悲しんだり、悩んで夜も眠れないのだが人間なのだ。完璧を装うサイコパス野郎よりも欠陥を持ち合わせた人間の方がいい。

これはそんな僕の、言い訳noteである。

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