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足りないものに惹かれて。

久しぶりにインスタを見て思った。「美人は3日で飽きる」のカラクリはそもそも美人が多すぎるのだと。もっといえば、完璧に見える人が多すぎるのだ。

飽きるというよりは麻痺に近いのだが、美人すぎる〇〇が流行ったあの時期、たぶん完璧の壁が崩れたおかげで隙が生まれ好きに変わる人が多発したのだろう。と勝手に解釈している。(注:上記の話は、私の個人的な性癖の話しであって、全ての男性がそうではないことを念のためお伝えしておきます)

私だって完璧を目指したい。なのに身長は165センチしかないし、収入もいたって普通に食べていけるくらい。ブランド物なんて買おうものなら明日には消費者金融にお世話になるだろう。学歴は高卒である。ハイスペック男子が持ち合わせる3Kのうちの1K(身長)はどうあがいたって無理なのだ。健康体に産んでくれた母には感謝している。

ただ、「完璧」なんかこの世にはないことも分かっている。誰かにとっての虚構でしかないことも。僕の場合、完璧だと思う時には「そうであって欲しい」という願いも少し、いやだいぶ含んでいる。これだけやったんだから.......そういう願いだ。

趣味で野球をしたり、ゴルフを楽しんだりする。テキトーにやってもしょうがないのでもちろん本気でやる。野球の大会やゴルフでコースに行く予定があれば完璧に準備する。だけど、いつも睡眠不足で当日を迎えることになる。楽しみで寝れないのだ。学校の遠足前日はしっかり寝れるのだが............。

というわけでどれだけ準備しても当日は不足がある状態で臨むことになる。もちろんあなたはこんなにへたれではないと思うが、仕事だってつねに完璧を演出できるわけではない。時間は無情にも過ぎていくし、残念ながら完璧を出したところで上には上がいる。

消費者の立場としての意見になるのだが、私はいつだって不完全なものに惹かれてしまう。例えばずっとjeepに乗りたいと思っているのだけど、税金は高いし、燃費も良くはない。でもそこが良いと思ってしまう。

好きなスポーツ選手もなんでも出来るスーパースターよりも何か一つ特化してそれだけでプロの世界にいる人を好きになってしまう。
野球選手でいえば、元中日ドラゴンズの英智選手のような守備の名手と呼ばれる選手である。

そういえば、家の近くに親子丼だけとにかく美味しいお店がある。あれだけ美味しいのなら他のメニューだってそこそこ美味しいはずなのに、なぜか親子丼だけ美味い。あまりに親子丼が美味しいから感覚がおかしくなってしまったのかと思ったけれど、他の人に聞いても「親子丼は、美味い」と言う。例にならって一気に愛おしく思える。
とんねるずの番組の「きたなシュラン」というコーナーが好きだったのもそういうことなのだろう。

簡単に説明してしまったけど、やっぱりどこか足りない感じが好きなのだ。何か読み物をするときだって考える余白がある方が好き。全部をこと細かに説明してもらわなくてよいと思ってしまう。会話も途切れたときの「間」が面白い。人だって仕事ばりばりだが私生活はちゃめちゃとか、めちゃくちゃ運動神経抜群なのに勉強はポンコツとか、ゲームはプロ級だがコミュ力皆無とかたまらない。

なぜかは分からないのだがずっとそうなのだ。とにかく足りないものが好き。たぶん、足りてないから良いところが際立ってみえることもあるかもしれない。

ただし、条件があるとしたらこれが好き!とかこれなら負けない!言えるものがあるかどうかは重要かもしれない。(実際がどうかはあまり関係ない)それがあるからこそ僕は安心して足りない部分を好きでいられる。少し偉そうな表現になってしまったけど、人もモノも、なんでもできるわけじゃないけれど、これは得意です!がないと魅力的にはうつらないのかもしれない。

それがあってこそ、足りないところさえも「好き」の一部になり得るのだと思う。なんの勇気づけができるか分からないけど、だから「完璧」が尊いものだと思わないで欲しい。それよりもあなたが好きなものを好きなだけ握りしめてる姿の方が絶対に尊い。離さないで欲しいのだ。

ミーハーだと言われようがダサいと言われようがカッコ悪い!可愛くない!と言われようが関係ない。
よく、ファッションがダサいと言われる。かなりへこむ。

ーあのな、まじで頼むから。そもそもダサいやつを流通させんなよ!買ってしまうだろ!

と思わなくもないが、誰かがイケてると思って作ってる洋服を私もイケてると思って買ってるだけなのだ。TPOをわきまえて失礼のないようにはする。約束する。だからダサいだけはやめてくれ。(お洒落になりたいとは思っている)

話しがそれた。申し訳ございません。

とにかくなんだろう。
足りないものがあることはすごく自然なことでだし、周りと比較しようものなら全部足りないものになってしまう。だからわざわざ神経すり減らして加工する必要はないと思うのだ。

もちろん、現実と理想のギャップがなかなか埋まらない葛藤は人生の醍醐味の一つではある。
だけど、不完全な自分を認めることも、不完全な相手やモノを認めることもまた、必要なことではないかと思う。そこで生まれた心の余白はきっと大きな優しさを生むのではないかと信じている。

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