感情を野放しにしないために。
「書く」には正解がないのが本当に好きなところで、なんの為に書くかも人それぞれで、それと向き合っている時間はとても豊かな時間だなと感じる。
初めてnoteでなにかを書こうと思ったとき、目の前にある日常を書けばいいものの、なぜ私は「幸せ」についてなんか考えてしまったのか。
正直に気持ちを整理すれば、人目に出てしまうぶん、「何か立派な事を言わなければ」と思っていたのかもしれない。怖かったのだ。「つまらない」と思われることが。
ーそれは自意識過剰ですね。と言われても素直に受け止める。笑
だからお題自体にそれっぽい賢さを持たせて、それに引っ張られるように言葉を集めて何となく形を作っていたのだ。
せっかく書いているのに、これではまるで単なる作業にしかならなくて。書きたい、書けるようになりたい!と思いながらどこか受け身でしんどさを感じてしまうのだ。
書いてるのは間違いなく私なのだけれど、それは間違いなく私ではない。そんなnoteの下書きもまだいっぱいある。
でも、たくさんの方のnoteを読むのをいつも楽しみにしていて、気づいたことがある。
みんな書くことを楽しんでいて、これまでたくさんの素敵なnoteに出会えた。
もちろんその中には、心を整理しながら、言葉に出来ない感情さえもどうにか言葉をひねり出して伝えるという苦しい作業がほとんどだ!という方もいると思う。
私もけっこう苦しい。笑
言語化することがとにかく苦手だったからnoteを書き始めたのだが、未だにうまく言えない。
ただ、こんなこと言うと恥ずかしいのだが、書くことに酔ったことで少しだけ自信がついたこともある。
正直に言うと、、、、
この書く行為がいわば自慰行為に近いような感覚になったりすることもあって、自分が言いたいように、好きなように書くことに気持ち良さを覚えてしまった。完全に自慰行為みたいなものである。
だけど、noteでサポートを頂いたり、とても嬉しいコメントを頂いたりして、そういう感情を経験させてもらったおかげで、僕はオナニーのような自分主体の「書く」という行為を卒業せねばという思いに駆られた。
もちろん好きなように書けばいいという意見もある。私もそう思う。反対する気は一切ない。
ただ、「読んでくれてる人がいる」と身に染みて分かったとき、かなり反省した。忘れてはいけないなと。
誰かのためになる文章を書きたいと思わなくもないが、もしかしたらそう思うことすら自分勝手かもしれないし、「誰かのために」なんて考えること自体が押し付けがましくていい迷惑かもしれない。
書くことについて完全な素人のくせになかなか立派に悩んでしまう。あんなに勢いよく語り出したはずなのに、後半にはもう細々とした文章になっていることも少なくない。
1番最初のnoteなんか、自分で見ると絶望的に恥ずかしい。
文章の面白いところはいつも不完全であること。だから読むことで想像力が鍛えられるのだと思う。誰かに読まれてはじめて、呼吸し始める。
そして、書くことでいつも見え隠れする自分のかたわれを探し出せそうな気がする。「本当の自分」なんていい大人が言うな!と言われそうだが、私は、人はいくつになっても自分のかたわれを探し彷徨っていると思っている。
経験とともに価値観も変化していくからだ。さらには社会目まぐるしい変化に対応するように生きていれば必ず現実と本心とにズレが生じる場面がある。
だけど、
書くことが思考の軌跡になる。
丁寧に書くことで自分を大事に出来る。
感情のグラデーションを丁寧に拾い集め、文字にすることが、人間の優しさの幅を広げる。
そんなことを考えている。
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