僕は今大学生で京都の大学に通っており、地元を出て一人暮らしを京都の市街地でしている。京都は不思議な町で、歩いていると住宅地の中に突然、割と大きい寺が現れたり、古めかしい所だなと思ったら、いつの間にかビル群の中にいたりする。ガラス張りのビルの真隣に何百年前の寺社があるのは、丈長なフィルムの大部分をぶち切って端と端を繋げた感じがしておもしろい。 あなたは京都と聞いたらどんな所を想像するだろうか?清水寺や金閣寺、町屋などの寺社仏閣、昔ながらの町並みを想像されることだろう。これらは
tsむずい
何かを維持しなければならない、自分にとって大切なものを失いたくない。 そういう風に考える時に、どうすれば失わずに済むか、つまりは今の状態というものを維持できるのかという疑問を抱き、その解決策を探る。 それとか、何かを身につけたいときにどういう方法を取れば身につけられるか問われるとする、その時にある一定の正しい解決策を質問者は欲している。 回答者として彼らに挑戦したい。 朝から始まり、昼明けに始まり、夕暮れ時になりやむ隣のマンションの工事現場の耳をシェイクするようなドリルの
現代人が抱える不安を一言でまとめるとしたら、コミュニケーションという言葉に帰着した。 不安を感じる要因は個別具体的な項目としては多種多様であり、思いつけば思いつき、キリがないだろう。転がる石なんだ急斜面を、着地と同時にリアクションとしての反発を起こす。 そうやって、色々思いつきはするんだが、その原因は他者との社会との関わり合いにおけるあれこれによって生まれてきているのではないか、俺は最近そう思ってきた。つまり、コミュニケーションの問題として捉えられるのではないかと考えている
この思考筋力を最重視する社会はいつまで続くのだろうか。 人工知能がこのまま発達し、人間の思考というアイデンティティを奪われた時に人間は自分自身の実存的な存在意味をどこに見出すのだろうか。 そういったことを考えていると、当たり前だが身体性を考えざるを得ない。そして、物質性についてもだ。情報という限りなく軽いものは元々の型ができて仕舞えばノータイムで再生産され、配布され、散らばっていく。それが今後はますます加速していくだろう。そのため、生産に時間がかかる物質というものが今まで以
自分のことを分かった気になったり、人のことを分かった気になったり、世界のことをなんだか分かった気になったり ここ数年のそんな勘違いをフラッシュを炊かれるように消される出来事があった 頭の中だけで考えて、完結させて、自分だけが納得するようにおためごかしをするようになったのはいつからだろう 楽をして、時間と気力の無いことを言い訳にして、トキメキを無視して、成熟から遠ざかることを小さくて固まりやすい俺の心は引き潮のように受容した 知識を得ることが好きだ、問題を解くことが好き
断ち切れるような筋に、空虚な骨が見透かれていて、凍えるような情熱の中にずっといたような、そんな気がするまどろみを。 猫がスヤスヤと眠る頃に俺はヤスヤスと正座している。抜き取られた背骨を取り戻すかのように眠る今晩を一生空けてほしくないと願うその夜を。 何もかもが喉を通り、腹に溜まるそんな感じのイメージを私は今日も脳裏に宿す。 せめてもの慰めに画面を無意味に見続ける。山々の連なりも、川の流れも映らない視点で。 七色の田んぼが瞼に浮かんでは消え、頭の皺が増えることを実感し、果てしの
今死んでもいいと思う瞬間がある。感情が満たされて、未来が見えなくて、脱力なのか重力なのか体が飛びそうな定住を自分の肉体に刻み込んだ時。 この先を想像し得ないそんな瞬間が。でもね、破滅的な欲望は何かを滅ぼしこそすれど、叶えも救いもしない、一足飛びどころの話じゃない、飛び越えを平気で行えると思ってしまうようなそんな精神状態、口付け一つでどうにでもなる世界じゃない、だからこそ一つ一つの積み重ねでしか世界は作れないんだ。 これはきっと間違いじゃなくて、点と点は繋がって、世界を成すけ
無機質で重厚たる静寂、いやむしろ質量のない世界における現存在。広がりも縮小もしないその箱の中で唯一の動的な物体として闊歩する自分が愛おしい。徐々に自らも空気となるあの軽さがその胸をスポイトのように締め付ける。私は希望ではなく、孤独を手放したくない。それこそに熱き冷涼たる血潮を激らせ、自身の存在の確証を明確に掴み取り、離さない。 眠気と湿気の同化した今日はこのまま波のような空気にアメーバのような自分が擬態し、大河のようなバイパスに土産とともに流されたい。思うように動かせない、思
芸術によるミニマムな変革、思想と数式の混合した秩序が生み出す混沌によって周りのリアルな空気を変えてしまおうという活動。芸術は暇な金持ちの道楽であったそうだが、それは余裕があるが故にこの人間世界の仮初の価値を見抜いた結果、芸術という混沌に身を投じるしかなかったのではないか。現実世界からの離脱という点に関して言えば、信仰も芸術も共通している。 仕事に対する数々の一般的な捉え方も信仰によって支えられているところが大きいだろう。例えば、労働そのものに対するべき論だ。我々はもはや長時
電車の中でも街中でも自分の部屋の中でも目をつぶれば、変わらず荒波が吹き荒れている。どうすればおさまるのだろうか。他の星からの助けはまだなのか。アメーバのような靄が縮んだり広がったりを繰り返しながら、こちらが一向に掴むことのできないような振幅をし続ける。 そうだ、あれは昔は光そのものだったのだ。確かにそこにあり、触れているような感触があった。しかしなぜだろう、今ではとてもじゃないがそうは思えない。いや、より詳細に見えるようになっただけなのかもしれない、きっとそうだ。それならば
この一年何も変わらない。いや、一年どころか三年ぐらい何も変わらない。監獄の中のしきたりからやっと逃れることができたと思ったら、自分の中にそのしきたりの習慣だけが既に染み込んでいた。しきたりとその欲望が存在していた頃はまだマシだったようだ。欲望は実存であるから。しかし、しきたりだけが骸として残った今それは見た通りの空洞なのだ。空洞の中に居心地のよさを感じないように決心をしても気づいたらその中で寝転がっている。次の日こそはと決心をする。その繰り返しだ。しかしながら、そこは空洞であ
スピノザは家を持たず、下宿を転々として、レンズ磨き職人と金銭の援助によって生活を成り立たせていた。 ルソーの一般意志は絶対的な善であることを前提としているし、それを強要し、従わせることを自由と呼んでいる。 カント:アプリオリな総合判断は経験に先立って、それを知っているということ。
日本近代文学の起源:言文一致と風景の発見の類似関係。リアリズムの倒錯。それによる内面の発見。そこからの主観的、つまり内面から外化されたものによる実在の別の価値の創造。それは内面の思索ループを引き起こす。森鴎外の擬古文はそこからの離脱のようなもの。ユーモアもそうでループからの脱線によりそこを突き破り、分散する。 精神分析4:定式化。人間に固有な関係が生じる以前に自然の提供するシニフィアンが作り上げた関係に人間自体が組み込まれており、その後に主体は出てくる。原因の裂け目、無意識
分布、推定、検定 五重塔の再生産性は律令国家あたりの文化からきているのか?日本人の外面的内在性は外来的なもので構成されているが、本質的な内在性にそういったものが介入する、というよりも、そうしたものによって変容させられる余地がないのだろうが、そのこと自体に我々はほぼ無自覚である。それを自覚しなければ自身のことを語ることはできないだろう。手を差し伸べられ手をつかんで入るが引っ張りも引っ張られもせずにほぼ無視している。外部のものに囲まれながらも陣地に踏み込ませないその度量はどこか
分析哲学は事実/価値規範の二項対立によって分析をしたが、そこには常に事実と規範の相互的な関係が見え隠れし、倫理的概念において薄い概念と暑い概念との不可分性の証明によって、役割を終えた。 ポスト構造主義は二項対立の未完了性を根拠に構造主義の成立要因を否定し、両極に行き切る事の無い無限のxに対する有限の人間を規定した。動物的人間の個性的な普通の人間の沈殿によって社会膜を突き抜けて、共同を産む逆説。 150。共通言語的な教養を身につけるとサルから人間に。難解なテキストをそのまま