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日本人がなぜ読み書きにこだわるのか?

普段英語を教えていて感じるのですが、日本人は英語を学び始めて間もない人にも読み書きを早く導入したがる傾向があると思います。

なぜ日本人がそのような価値観を持っているのかについて、今日は民俗学・歴史学的な見解などを調べてまとめてみました。

実は、私もちょっとオタク的な部分があって、こういうことを勉強することも好きなんです(笑)。ちょっと固い話ですが、興味がある人は読み進めてみてください。

民俗学・歴史学的に見て、日本人の国民性には、2つの重要な要素があります。その1つは、海に囲まれた「島国」であるということです。もう1つは、村を単位とする共同体の中で農業を営んできた「農耕民族」であるということです。

英国人も同様に島国の民族ですが、彼らは元々ヨーロッパ大陸から来た狩猟・遊牧民族です。自由を求めて、大陸を渡りアメリカ合衆国を作ったり、世界各地に植民地を作って大英国帝国を作ったりと積極的に巧みに外の文化と交渉・侵略していった背景を持つ民族なんです。

食糧のための狩りは必要ではなくなったのにもかかわらず、今でもイギリスでは趣味で狩りをする人がたくさんいたり、アメリカが銃国家であるのは、きっとその文化の名残りからなのでしょう。

生活を豊かにするために、1つの場所から他の場所に自由に移動してきたので、言葉を使った外交に長けた文化を持っているのが英国人です。

英語は、そんな英国人が作った言語です。彼らにとって、「話す」ことは、生きるためにも大切な手段だったので、英語は日本語よりも複雑な音を持ち、抑揚によって意味を区別する音の言語「音声言語」になったのです。

だから今でも、ディスカッションやスピーチが重視され、きちんと自分の意見をわかるように伝えることが英語圏の人には大切な価値観なのです。

それに対して、日本人は、自然災害の多い国土で農耕をしてきた民族です。村という共同体の中で生活を行い、一緒に災害を乗り越え、収穫を祝って来たのです。

何をするにも村が支え合って生きていくという「共同主義」で生きてきたため、個人よりも村(社会)を重視するという価値観が生まれてきたと考えられます。

そんな日本人が作った日本語は、「話す」ことよりも、「空気を読む感受性」「読み書き」に重点を置く「視覚言語」になったと思われます。

そして、世間体や人の目を気にしたり、和を乱すような「出る杭」になる人を排除しようとするような風潮や「村八分」という考えもそのような背景から生まれたと考えられます。

ひとたび、村八分になった人は、どこの村にも受け入れてもらえなく、待っているものは死だと思われていたため、村の存在は絶対視されてきたのです。

日本には「沈黙は金」とか「口は災いのもと」ということわざがあるように、「話すこと」は失言のリスクを伴っていたため重視されず、村のために、口数は少なくして黙々と働くような「協調性」「勤勉性」などを大切にした日本人独特の国民性が生まれたと考えられています。

中国から伝えられた漢字も、日本語の視覚言語性を強化させたと思われます。全く知らない新しい文字であっても、視覚からその意味がイメージできてわかるのが漢字の特性です。魚へんがついている漢字であれば魚の種類だとわかるとか、草かんむりがついている漢字であれば植物の種類の文字だとわかるのが、その例です。

同じく中国から来た習字も日本文化と融合されながら独自に確立され、日本人が「書く」ことを重んじるようになってきたことを示しています。

習字を通して、字が上手に書けるようになることは、徳を積むことであり、教養をつけたり、精神性を高めるようなトレーニングだというように考えられてきているのです。

現在の日本は、社会の秩序を守り、他の人と支え合いながらも、人の目を気にせずに、個人が自由に自分らしく生きていける社会となってきました。

出る杭になっても、村八分となって、餓死することはありません。私のような空気の読めないちょっと変わった人にとっても、生きやすい社会となってきました。

日本という小さな「村」や枠組みで物事を見るよりも、世界と繋がって国際的に物事を見ていたり支え合っていくことも大切になってきました。

だから、これからの時代は、日本人としてのアイデンティティを持っているだけではなく、広い視野で色々な価値観を持った人々とコミュニケーションできる力と多様な文化に共感していける許容性が必要になってきます。

英語を学ぶことは、その過程で広い視野や多様な価値観を持つきっかけになると私は信じています。

他の人に喜びを与えるアナタは、きっともっともっと与えられるはずだわん💕