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サントーシャについて

ヨガ哲学の概念に「サントーシャ」というものがあります。サンスクリット語で、「完全な」という意味の「サン」と「受け入れること」という意味の「トーシャ」をつなげてできた言葉です。「現状に満足していて、十分だと感じている状態」のことです。

現状に満足しているといっても、サントーシャとは、ただ座って何もしないということではありません。今の自分を100%受け入れた上で、自分を成長していこうと努力を続けることを指します。

その反対に、肩書きや容姿、車や家やパートナーなどの外側の条件にばかり集中・執着して、それによって一喜一憂するような生活を送っていく人の方が多いはずです。私もそうです。こういった外側のものは、絶えず変化するものだから、今あったとしても、いずれ離れていったり、無くなくなってしまうのが、世の常なのです。

外側を軸にしていると、状況が変化する度に、自分の感情や人生そのものが大きく振り回されてしまうことになります

もちろん、大切な人や物との別れは、苦しくて悲しいものです。でも、小さいことに執着したり、求め続けたりして、いつまで経っても満たされないのでは、いつまでも苦しさが続きます。幸福感を感じて生きていくには、今すでにあるものに目を向け、現状に感謝して満足していることが大切なのです。

とはいっても、衣食住に困らないそこそこに豊かな暮らしをしていても「あともう少しお金に余裕があったら」とか「一軒家さえ手に入ったら」とか「パートナーがいてくれたら」とか「もうちょっと痩せたら」などの「こうなってくれれば良いなぁ」という次の欲求が1つや2つ出てくるのが人間の本能です。

ちょっとずつ成長していきたいという気持ちがあるのは、悪いことではないけれど、いつまで経っても満足できず、心の安らぎが感じられないと苦しくなってしまいます。求めはじめたら、欲求は無限に続きます。

そんな欲求や不満が出てきたら、私は一度立ち止まって、自分に問いかけてみるようにしています。「必要以上に求めすぎていないか?」「このことは、自分にとって本当に必要なものか?」

宮沢賢治の没後に発見された「雨ニモマケズ」の詩は、まさに彼もそんなサントーシャの概念のような生き方を目指していたんではないかと感じられます。

雨にも負けず
風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ
丈夫なからだをもち
慾はなく
決して怒らず
いつも静かに笑っている
一日に玄米四合と
味噌と少しの野菜を食べ
あらゆることを
自分を勘定に入れずに
よく見聞きし分かり
そして忘れず
野原の松の林の陰の
小さな萱ぶきの小屋にいて
東に病気の子供あれば
行って看病してやり
西に疲れた母あれば
行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば
行ってこわがらなくてもいいといい
北に喧嘩や訴訟があれば
つまらないからやめろといい
日照りの時は涙を流し
寒さの夏はおろおろ歩き
みんなにでくのぼーと呼ばれ
褒められもせず
苦にもされず
そういうものに
わたしは
なりたい

原文は、旧カタカナで書かれていてわかりにくかったので、ひらがなに変えてみました。

久しぶりにこの詩を読んでみて、「病気や死や天候などの自然の摂理を受け入れ、自分に対する他人の評価を気にせず、必要以上の物を求めたりもしない」そんな執着のない人生を賢治は送ろうとしていたことが感じられました。

自分にとって幸せとは何かがわかっていて、それを追求して生きてきたのが感じられて、そんな生き様がカッコいいなと思いました

私自身は、そこそこ健康でキレイでいたいし、美味しいものも食べたいし、楽しく豊かに暮らしたいので、賢治のように生きたいとは思いませんが(笑)私らしいサントーシャの形を探して、それに従って生きていきたいなと思います!

まずは、すでにあるものを、当たり前だと思わずに、感謝をすることを忘れないでいこうと思います!

他の人に喜びを与えるアナタは、きっともっともっと与えられるはずだわん💕