【物語】何もなかった日
「ただいま。」
玄関を開けたら、小学5年生の息子が正座していた。ぎょっとして、思わず入ったばかりの玄関から一歩下がった。
息子は、お気に入りの黒いパーカーを着て神妙な顔をしつつ玄関の前に座り込んでいる。
何が起こっている?
最近息子には反抗期がきたらしく、俺が説教しても聞かなくなっていた。
ゲームばかりで宿題をしない息子に、「しっかりしなさい!」と怒ったことがある。すると息子はこう返してきた。
「親父だってしっかりしてないじゃん。この前母ちゃんに『靴下裏っ返して洗濯機に入れないで!』って怒られたじゃん。オレのこと言えなくね?」
俺は何も言えなかった。もはや息子が俺を頼るのは、ゲームの課金の時だけだ。
その息子が、玄関で正座?
咄嗟に妻がいるキッチンの方を見る。
妻は今晩の夕食である唐揚げを揚げていて、こちらに目を向けない。しかし、口元が笑っているように見える。
妻の含み笑い。
俺の帰宅に合わせて、玄関で正座している息子。
誰も見ていないリビングのテレビ。
ガランとしている机。
ん?
俺は違和感を抱いた。
最近、リビングの机はぐちゃぐちゃしていた。なぜなら、机にはゲーム機やら中途半端な宿題やらが散乱していたからだ。今日はそれが、きちんと揃えられている。ということは、「ゲームはルールを守ってやってるよ。」ということをアピールしているのか?
これは、、、
またゲームの課金の話か?
息子がゲームの課金の相談をする時は、「ゲームはルールを守ってやるから!」というのが口癖だった。
しかし、、、
今月は息子に頼まれて、お小遣いからいくらか引いた金額をゲームの課金分は支払ったはずだ。あまりにも催促してくるようなら、今日こそは親父としてガツンと言ってやらねば。
「話があるなら、リビングで待っていなさい。準備してからいく。」
少し冷たい声で息子に言った。
息子は、表情を一層固めて静かに頷き、リビングに向かった。
俺は上着を掛けるために寝室に向かう。
なぜかクスクス笑っている妻の声が、少し気になった。
「さて。話を聞かせてもらおうか。」
リビングでも正座していた息子に、俺は話しかけた。息子は少し言いにくそうに口をもごもごさせていたが、決心したように顔を揚げて俺に言った。
「お父さん、ごめんなさい。オレ、お腹減っててお父さんのポテチ食べちゃった。」
「ん?」
ポテチ?
話が思わぬ方向に向かった。
俺は思わずテレビ台の下にあるお菓子ボックスを見た。
テレビ台の下には、カラフルな引き出しが並んでいる。引き出しの青は俺、緑は妻、茶色は息子のそれぞれお菓子ボックスだ。確かに2日前に薄塩味のポテチを買ったが、、、
息子は俺に怒鳴られると思っているのだろうか。うっすら涙を浮かべて正座した膝の上で手をグッと握っている。
なるほど。
俺のポテチを無断で食べてしまったことを悔いているのか。自分から話したのはいいことだ。だが、勝手に人のものに手を出したのは良くないな。
俺は、少しお説教したら終わりにしようと思った。だから、少しだけ話を盛って息子に言った。
「そうか。人のものを勝手に食べてはいけない。それは泥棒と同じだ。お父さんは今日、ポテチを食べるのを楽しみに仕事を頑張ってきたんだぞ。」
俺は少しがっかりした表情を浮かべてみた。ポテチを買ったこと自体忘れていたが。これで、少しは懲りただろう。この話はもう終わり、、、、
そう思ってちらりと息子を見ると、息子の目には涙が浮かんでいた。やりすぎたかもしれないと焦る俺を置いて、息子は話し出した。
「勝手に食べてごめんなさい。食べちゃった後、お父さんのポテチはオレのお小遣いで買ってきたよ。悪いことをしたから、ごめんなさいの気持ちを込めて2つ買った。2つともお父さんのお菓子入れに入れておいたよ。もちろん、これで勝手に食べたことがなかったことにならないのは分かってる。でも、お父さんが楽しみにしてたポテチは今日食べれるから安心して。」
ん?
俺は、息子の手際の良さについていけなくてぽかんとした。
お菓子を勝手に食べて、謝るために自分のお小遣いから2個もポテチを買ってきて、元に戻したのか?俺から見ると、ただポテチが1つ増えただけで、なんの損もないのだが、、、
絶妙な沈黙が俺たちの間に流れる。
きっと息子はまだ俺は怒られると思っているのだろう。しかし、俺は息子の素直さに感心していた。
だって、俺に報告しなくてもよかったじゃないか。
こっそり食べて、後から同じものを同じ個数買ってきて、戻しておけば、誰も気づかなかっただろう。いや、妻は気づいたかもしれないが、、、
息子が自分のお小遣いで買って戻すのであれば、おおらかな妻がわざわざ小言を言うとは思えない。
もしかして、お菓子を戻すときにお菓子ボックスを壊したとか?
俺は、そっとお菓子ボックスを見たが、昨日と変わった様子はない。
息子は、俺の方を恐る恐る見ている。
これ以上怒ることなど、あるはずがない。なんて素直でいじらしい謝罪なんだ。反省の意思は受け取った。叱ろうと思っていた気持ちは、もう微塵もない。
だが、俺はなぜこんなに息子が落ち込んで怯えているのかが分からなくて戸惑った。そんなに俺の説教は怖いのか?
「あなた、ちょっと手伝って。」
キッチンの方向から、笑いを堪えたような震えた妻の声が聞こえた。息子になんと声をかけていいか分からずオロオロしていた俺にとって、救いの声だった。
「少し待っていてくれるか?」
俺は息子にいう。
息子は小さく頷いた。
まだ正座を崩さない。
揚げ物独特の胸焼けするような匂いが、漂ってくるキッチンに行く。調理場には、ニコニコしている妻がいた。
(どうしたんだよ。)
小さな声で妻に問う。
(実はね。あの子がポテチ食べてた時、私は家にいなかったのよ。)
妻の話を聞く。
妻は今日の11時ごろ、お昼ご飯にしようとしていたチャーハン用の卵がないことに気がついた。だから、土曜日の授業参観の振替で学校が休みだった息子に留守を頼んで買い物へ出かけた。
20分ちょっとで帰ってくる予定だった。
しかし妻は、買い物に行く途中で近所のおばさまに出会った。話が長いことで有名なこのおばさまは、一緒にスーパーに行く言う。
そこからが長かった。
そのおばさまは、おしゃべりするあまり通常10分で到着する道を30分かけてゆっくり歩き、スーパーで卵だけ買う予定だった妻を引き連れて1時間30分かけて買い物をし、また30分かけて帰ったのだという。
11時に出かけたはずの妻が帰ったのは、午後1時半。
待たせた息子に申し訳ないと思いながら玄関を開けると、リビングでしょんぼりした息子がいたのだという。珍しくゲームもせず、テレビもつけず、iPadでYouTubeを見ているわけでもなかったらしい。
妻は『遅くなってごめんね。今、ご飯作るわ。』と息子に声をかけた。キッチンに立って、卵を混ぜていたら、息子が足元にきて、グッとエプロンの裾を掴んだ。いつになく落ち込んだ様子の息子に、妻が異変を感じて息子と目を合わせた。
『どうしたの?具合悪いの?』
息子は首を振る。しかし、首を振りながらしゃくりを上げて泣き出してしまったのだという。
チャーハンを作る手を止めた妻は、息子の話に耳を澄ませた。
息子は言った。
お母さんがすぐに帰ってると言っていたから、ゲームをして待っていた。でも、12時を過ぎても帰ってこない。お腹が減ってきた。近所にいる話の長いおばさまを思い出す。この時間なら、その人にお母さんが捕まったかもしれないと思った。
きっと昼ごはんは遅くなる。そう思ったら余計にお腹が減ってきた。ゲームも集中できない。でも、自分は昨日お菓子を食べてしまったから、お菓子ボックスにもお菓子はない。
そんな息子の目に映ったのが、お菓子ボックスからはみ出していた、俺のポテチだった。
唐揚げのいい匂いがしてきた。
妻が唐揚げを油から掬いながら小声で続ける。
(泣きながらあの子が言ってたのよ。『お父さんに嫌われる。人のものを取ったらダメだっていわれてたのに』って。)
妻が呆れたような、愛おしいものを見るような目でリビングの方にちらりと目を向けた。
俺も、妻が見つめる先―息子を見る。
相も変わらず正座する息子。
最近は素っ気ない態度が増えて寂しく思っていた。反抗期と分かっていても、息子に嫌われているかもしれないと思う日もあった。しかし、息子は相変わらず俺を愛してくれていたのだ。
嫌われたくないと泣くほどに。
俺は、キッチン出てリビングに戻った。
そして、正座する息子の目の前に座り、手を伸ばす。息子はキョトンとした顔のまま、俺を見つめていた。
ぽふっ
俺に似て猫っ毛なふわふわの髪を撫でる。
―心配性なのは俺譲りかな。
―俺がお前を嫌うことなど一生ないのに。
―お調子者の癖に、変に真面目なところは妻譲りかもしれない。
俺は、精一杯の愛情を込めて言った。
「誤魔化したりせず、きちんと教えてくれたお前のこと、父さんは誇りに思うぞ。」
息子の目に涙が溢れた。
グズグズとなく息子を、俺は抱きしめた。
久しぶりに抱きしめた息子は、想像していたよりも重かった。でも、想像していたより幼く小さかった。
「夕飯の準備をしようか。」
息子は俺から離れて、大きく頷いた。
ちょうど妻が唐揚げを持ってリビングに来た。
大好物に目を輝かせた息子を、俺と妻は穏やかな気持ちで見ていた。