見出し画像

周りの目を気にしすぎなければ糾弾される

 今受けている講義で教授のご厚意で生徒が自分のやりたいことを宣伝できるという時間があるんですが、その内容が社会基準によって審査されているなと感じました。

”日本一モテる体を決めるコンテスト” は宣伝できなそう

 本日僕のやりたいコンテストについて宣伝していいかを聞いてみたのですが(毎講義300~400人くらい来ているのでこれを逃す手はない)「考えさせて」とやんわり断られました。
#先週はちゃんと断られた #二回目にして謎の進歩 #来週は押し切れるのか
どうやらジェンダー的に良くなさそう感があるみたいで、実際はどうかはわからないけどできるだけリスクは負いたくないっぽい。
先週は門前払いをもらったのでちゃんとは聞けなかったのですが、今週も頼んでみたらちょっと踏み入ったことを教えてくれました。
「宣伝させた後に学校側に”何の権利があって宣伝させてんだ”って怒られる可能性がある」
らしいです。どうやらこの講義で宣伝したものの責任は教授にいってしまうみたいで「大学って高校の延長線上みたいになってんだなー」と思いました。

責任を逃れる方法に”大学”ってないの?

 メンバーの活動の責任の所在をメンバー自身にするための方法としてホリエモンさんのようにコミュニティを”大学”という名目にしてしまうというものがあると思っていて、”大学”にすることでその中でのアクションがすべて自主的な活動に分類させられるらしいです。(岡田斗司夫さんがいってた)
そのはずなんですが、慶應大学では少しでも講義内でサポートすると教授に責任が転じるらしいです。よくわかりません。
ここまで管理しているということは大学側は生徒に想定された範囲内からそれた行動をとってほしくないんだなと。大学をこのように制限している要因は社会の目が厳しくなったという外的な要因なのか、「就職に強い堅実で安定志向の大学」というブランディングを少しも汚したくないといった内的な要因なのかわかりませんが、わかりやすいリスクはどこもとりたがらないみたいですね。

ジェンダーってどのくらい気にするべきなのか

 近年性別に関することがタブー視されている傾向は大学生の僕でも感じているんですが、どこに腫れもののように扱う理由があるのかが全然わかりません。これは性別だけではなく多様性全体に対して思うことなのですが、多様性だのなんだので得したのって認められたい人(社会に受容されることができた人)と最初期に認めた団体の二種類だけだなと感じています。それ以外の後から認めざるを得なくなった層は明らかに行動が制限されただけで(認めなかったら社会からワーワー言われ続けることになるから認めざるを得ないだけども)全く得るものはない。多様性を認める団体が増えれば増えるほど「多様性を認めているイケてる俺たち」ができなくなって「認めるのが当たり前」になるので社会の大部分の団体はただ損を最小限に抑えただけだなと思います。かといって多様性を最初に認めて莫大な支持を得た団体が諸悪の根源かというとそんなことはなくて、SNSが登場した時点で多分遅かれ早かれこうなっていたはずです。
 この窮屈な多様性社会から脱却するためには村を作ってそこでの文化を新しく醸成するほかないのかなと思っています。多様性社会を作った張本人であるノイジ―マジョリティーの台頭はSNSの普及によって抑えることはできなくなったので、これが発生した瞬間に排除するくらいの権力を行使できる環境がほしいなと思いました。

このコンテストはどう戦うべきか

 僕がやろうとしているコンテストは学校内のイベントみたいな枠にはとどめておきたくなくて、しっかり社会に出していきたい。今回食らったジェンダー問題はただの氷山の一角で、まあおそらく今後はもっと直面していくことになるはずです。ここで、まだ自分を取り巻く村を持っていない僕ができる戦い方はノイジーマイノリティーを排除することではなくて、ノイジーマイノリティーが声を上げてこないように表面をコーティングしておくことなのかなと思いました。なのでいよいよ ”日本一モテる体を決めるコンテスト” という題名を変更して当たり障りのない名前に変えることを視野に入れる必要がありそうですね。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?