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山の奥の家(SS No.69)

 那由(なゆ)は川のせせらぎを横に聞きながら、自分の背丈ほどもある草むらをかき分けて歩いていた。もう何時間こうしているだろう。キティちゃんの水筒はとっくに空っぽだ。日が傾くにつれ、那由の焦りも大きくなっていた。

 弟が生まれてからというもの、ママはそちらにかかりっきりで、ちっとも那由と遊んでくれなくなった。何につけても「お姉ちゃんなんだから」と我慢させられてばかりで、すっかり嫌気がさしたのだ。だから、ちょっとだけ心配させるつもりで、ママには黙って家の裏の山に登った。
 2、3時間ほど隠れて、ママが探しに来てくれたら出ていくつもりだった。ところが、いつの間にか山奥に入りこみ、帰り道がわからなくなってしまったのだった。

 ふいに草むらの中に、一軒の家が現れた。
 茅葺屋根と板張りの壁。玄関の横には木でできた道具類がごちゃごちゃと積み上げられている。「桃太郎」のおじいさんとおばあさんの家みたい、と那由は思った。
 那由は木戸を叩いてみた。返事はない。しかし、鍵はかかっていないようだ。もしかしたら、もう人は住んでいないのかもしれない。
 土間で靴を脱ぐと、そのままごろんと板の間に横になる。床には薄く苔が生えていて、疲れた身体にはちょうどいい布団のようだ。引きずられるように眠りに落ちた。

 しばらくして、那由はパチパチと何かが弾けるような音で目を覚ました。寝返りを打つと、部屋の中央が橙色に明るくなっている。
 入ってきたときは薄暗くてわからなかったが、この家には囲炉裏があったのだ。その囲炉裏を囲んで、これまた昔話に出てきそうな格好をした老夫婦がちんまりと座り、茶を啜っているのだった。

 「あら、起きたのかね」
 気づいたのはおばあさんだった。笑い皺の寄った丸顔は穏やかで、那由の侵入を怒っている様子はない。那由は勝手に上がりこんだことを謝り、家出の末に帰り道がわからなくなったことを打ち明けた。
 「よしよし、わしが送ってってやろう……腹ごしらえをしてからな」
 ぐうぐう鳴っている那由のお腹を見て、おじいさんも笑った。

 おばあさんは、この山で採れたキノコと山菜、ウサギの肉を使って、手早く味噌汁を作ってくれた。ひと口飲めば喉がごろごろ鳴って、お腹の底から温まる。那由がほっと息をつくと、おばあさんも嬉しそうに笑った。
 身体が温まると心も緩む。那由は自然と、2人に家出のわけを話していた。
 「でも、本当はわかってたの。ママが弟のお世話で大変だってこと……」
 お姉ちゃんだから、いつまでも甘えてちゃだめなのに。溜め込んでいたものが溢れてきて、涙が止まらなくなる。おばあさんは震える背中を優しく撫でてくれていた。

 おじいさんは那由の入った竹籠を背負い、ほいほいと軽い足取りで山を降りる。
 「わしらには息子が一人おったんじゃよ」とおじいさんは問わず語りに語る。 
 夫婦が歳を取ってからできた子供で、たっぷりと愛情をかけて育てていた。
 ところが、ある日、ふい、と姿を消してしまった。何日何日も山の中を探したが、とうとう、草鞋一足も見つけることができなかった。夫婦はひどく落ち込みーー息子のあとを追おうとしたこともあった。
 「……きっと、那由の母さんも同じくらい心配しとるじゃろう」
 おじいさんは竹籠からそっと那由を降ろし、背中を押した。木々の間に明かりが見えた。涙まじりのママの声がして、那由は胸がいっぱいになる。
 お礼を言おうと振り向くと、もうおじいさんの姿は消えていた。

 翌日、那由は老夫婦にお礼するため、パパと2人でもう一度山に登った。ところが、いくら川を辿っても、それらしき家は一向に現れない。
 ただ草むらの中に、夫婦の姿を彫った岩が一つ、あるばかりだった。

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