見出し画像

銭湯と、昭和ドキュメンタリー

湯治、という意味もあり、近所の銭湯に通い始めた。

浴場のスピーカーから流れる演歌。
水の埋め込みは、ほどほどにという手書きの張り紙。
(どうやら「埋め込み」というのは、浴槽に水を入れすぎてぬるくしないでね、という意味のよう。)

東京へ出張に行くたびに、昭和にワープするような銭湯を渡り浸かってきた。昔ながらの文化を味わえる銭湯を探すのが、ちょっとした楽しみになっている。

都会の顔をした世田谷のど真ん中、錦糸町の片隅、渋谷区の商店街の小道、美術館のポスターが並ぶ上野の外れ、ひっそりと唐突に存在する湯船と番頭さん。時が止まったままの歴史を湯水に飲み干したような銭湯が好きだ。

朝と夜の顔が違うのも、またいい。

近所の銭湯に行くのは、なんだか贅沢な気がしていたのだ。後悔した。

女性たちのドキュメンタリーが、そこには、あった。
徒歩5分の銭湯に、映画のような瞬間と、人生の大切のことが詰まっていて、胸をグシャグシャに掴まれてしまった。

「文化とは、かくあるべきである」と、さも高尚っぽいことを話したくなる。

服を纏わぬ所作には、彼女たちの人生が、見え隠れしている。

老夫人の年を重ねた深いしわの肉体と、入浴中でも凛と美しい、化粧顔。
静かに歯を磨き続ける、色香を残した妙齢の彼女の女の品格。
化粧水を大切に顔に浸透させようとする白髪まじりの夫人の指。

服を着ると、彼女たちは、日常に戻ってしまう。なんら特別なことはない、ごくどこにでもありそうな、女性たちの姿にカモフラージュされていく。

浴槽につかる、しなやかな曲線と、
揺蕩う湯気と所作を眺めながら、
彼女たちのそのセクシーな動作を、誰が知っているのだろうと、
ふとおもったりした。

「こんばんは」「おやすみなさい」

裸のまま、挨拶をして、
服をきて、挨拶をする。

もともと知り合いなのか、
はたまたここで顔見知りになったのか?
山で挨拶する文化になんだか似ている。

湯船から漂ってくるよもぎの薬香、
水風呂とサウナの交互浴。

じんわりと温まった身体を、
雪と夜風に晒しながら、
日常の片隅にこぼれ落ちさうな瞬間的ドキュメンタリーを、
何度も、何度も、反芻した。

銭湯へ行ってきます