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友だちがいない

新年早々、悲しくなるようなテーマで書かなくても…と思うけれど、いただいた年賀状でちょっぴりダメージを受けてしまい、タイトルにつけた「友だちがいない」ということがグルグル頭を駆け巡るので、こういう時は書き出してみようと思った。

友だちがいないということについて、30歳を迎えたあたりからよく考えるようになった気がする。正しく言うと、友だちはいるのだけれど「気軽に会って遊ぶような友だち」がいなくなった、かもしれない。以前読んだ朝井リョウさんの著書『どうしても生きてる』で、こんな文があった。

というか、地元を出て、社会人になり、結婚し、離婚し、いつの間にか、わざわざ約束をして会うような、おそらく友達という名のつくような人が、私の人生からこっそりといなくなっている。

朝井リョウ『どうしても生きてる』 幻冬舎 2019年 41頁

境遇こそ違うものの、この文にはいたく共感した。
何かを語らう友だちも、どこかに出かける友だちも、ちょっとした用事だけで誘い合える友だちも、気づいたらいなくなっていたように思う。そんなことにふとした時に気づいて、とてつもなく虚しくなったり、寂しくなったりする。

でも、これまでの自分を振り返ってみると、友だちがいなくなってしまうのも不思議ではないとも思う。私は誘われれば着いていくけれど、自分から誘うということがどうも苦手なタイプで、これまでそんなにやってこなかった。有難いことに、定期的に複数の友だちから遊びの誘いを受け、比較的いつでも暇をしている人間だったのでその誘いにも乗りやすく、月に何度かは友だちと会う機会があったように思う。でも次第に、会う頻度が減っていった。

30歳くらいから実感するようになった要因の一つに、多分コロナがあったと思う。はじめこそ「落ち着いたら会おうね」と話していたけれど、いつになっても落ち着く兆しは無く、タイミングを待っている間に時間だけがあっという間に流れて、気軽な距離感が無くなってしまったように思う。
それから、人生の転換期でもある「結婚」という一大イベント。だいたい20代後半から30歳くらいを前に、多くの人がこの一大イベントを迎えている。新しい人生のステップに進んでしまった人たちは、当然ながら、守るものが増え、関心を注ぐものが変わる。そうして、新しいところで生まれたコミュニティで、また輪を広げていく。
(でも思い返すと、2019年の元号が変わる際にあったあの大型連休でさえ、私は友だちとの予定がない、暇すぎて死んじゃいそうだ、と嘆いていたので、実はもっと前から友だちがいない問題はあったのかもしれない)

友だちがいないことで何が困るのか。実はあまりない。比較的一人行動が好きなこともあり、一人で寂しいと感じることはそこまでない。でも、例えばホテルのアフタヌーンティーを食べたくなったり、ちょっと観光地へ行ってみたくなったりしたときに、気軽に誘える友だちが居ないとちょっとだけ残念に思う。けれど、それならそれでアフタヌーンティーや観光地巡りは諦めるし、諦めたことに対して悔やむ気持ちもあまりない。

では、友だちがいないことの何をそんなに気にするのだろうか。自分でもよく分からない、というのが正直なところだけれど、分からなりに見えてくるのは、自分の中で友だちが多いことは良いことである、という考えがあるからでは無かろうかと思う。私は割と、世間体を気にする人間なのである。そして多分、私自身が友だちが少ない人のことを、どこかで見下しているのでは無いだろうか。だからこそ、自分がそういう立場になったときに、惨めになっているのはないだろうか、とも思う。

例えば数少ない友だちが、私以外の友だちと遊んだ話を聞くと、私以外にも遊ぶ子がいるのかという嫉妬ではなく、彼女たちにはちゃんと友だちがいて、ちゃんと交流があるのだなと、自分が情けなくなる。SNSでいいねがついている友だちを見ると、何気ない呟きにもいいねをしてくれる子がいていいなと思うことがある。それに比べて私は…と悲しくなるのである。
よく考えるのが、この先結婚をしたとして、結婚式に呼べる友人は果たして何人いるだろうか、ということである(ちなみに近々で結婚の予定は全くない)。片手で収まる(むしろ片手でも足りない)かもしれない、と急に心細くなる。なぜ心細いのだろうか。一人でも来てくれると思える友だちが頭に浮かんでいるのに、どうしてその子だけでは不安に思うのだろうか。大切な友だちなのに。

友だちの定義は様々だろうけれど、私にとっての友だちとはいったいなんなんだろうか。私は友だちに何を期待して、求めているのだろうか。私は友だちに、何を与えることが出来ている(出来ていた)のだろうか。

友だちがいないいないと言っているけれど、年賀状を出し合う子や、SNSでたまに絡む子、たまに絡んで年1回くらい会う子など、考えてみれば交流する人はいるのである。では、その方々は友だちでは無いのだろうか。いや、やはり大切な友だちである。気軽に会えて遊べるだけが友だちではないことは、自分が一番分かっているはずなのに、気軽に会えて遊べる友だちが多いことが、どこかステータスが高くて良いと思ってるのかもしれない。

疎遠になった友だちは、きっとこの先もしばらくは疎遠だろうと思う。なので、今いる友だちを大切にしたいと思う。けれど、疎遠になった友だちも、またいつかどこかで交わる日が来るかもしれないので、その時はまた大切にしたいと思う。
以前読んだ柚木麻子さんの著書『あまからカルテット』の酒井順子さんによる解説に「環境が変わったことにより疎遠になり、このまま友情は終わるのかと思う時期があったけれど、子育てがひと段落したとき、友情は自然に戻った」といった実体験が書かれていた。それを読んだ時に、なるほどなと思った。

いつまでも、昔のようには過ごせない。環境が変わっていなくても、歳を重ねることで同じ景色を見ても感じ方が変わるように、好きな物が変わるように、人は日々なにかしら変化している。これまで私の人生に居てくれた友だちは、そんな風に日々変化していく中だからこそ付き合うことのできた友だちなので、疎遠になった寂しさもあるけれど、その変化の途中で出会えたことは良かったとも思う。今は交わる時ではない。ただそれだけのことなのかもしれない。

今は友だちとちょっと疎遠な時期。グイグイこちから行けないのであれば、潔く一人を満喫するのが良いのかもしれない。その代わり、誘いたいと思ったときは誘ってみて、誘われたときにはたくさんついて行く、そんな気持ちである。

もうすぐ32歳になるけれど、とにかく1年が光の速さで終わると感じるこの頃。友だちがいないと嘆いて2023年が終わるのは寂しい(まだ始まったばあかりなのに、すでに終わることを考えている)。嘆いてもいいけれど、気にしてウジウジして結局部屋でゴロゴロし、Twitterで「友だち 少ない 悲しい」なんて検索して時間が立つような過ごし方は、あまりしたくはない。友だちに頼りすぎない、自分を楽しめるような過ごし方をしたいものである。

結論は特にないけれど、今でも交流してくれる友だちに感謝して、大切にしていかねばと一層思うこの頃。またしばらくしたら元気になるだろうし、しばらくしたら友だちについて考え落ち込むだろうけれど、そういう波にもまれながら、そのうち岸辺にたどり着くだろうと思う。そんな感じで、過ごしていきたい。

2023年はこんな雰囲気でスタートです。なんか、新年ならではの清々しい感じや、1年の始まりに期待をするような、そんなはつらつとしたスタートではないことがちょっとだけ気になるけれど、そんな年があっても良かろう、ということで、書初め(?)でした。

おわり🎍


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