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やけになれない

ちょうど一週間前の今日だった。

みんな勝手なことばかり言う。みんな自分のことばっかり。みんな、みんな、好き勝手しやがって。むしゃくしゃする。
周囲が自分本位で動くことにとてつもなく怒りの感情が湧いて、会社を出る頃には心臓がバクバクしていた。いや、ボコボコと沸騰していた、のほうが正しいかもしれない。マスクの下では歯を食いしばって、少しだけ鼻息が荒くなるような、変な呼吸をしていた気がする。
だけど、私はその怒りを綺麗に表現できないし、普段からそういう気持ちを抑えているので、どうしたらいいのか分からないというのが正直なところであった。

自分なりに導き出した解決策は「こうなったら、お菓子をひたすら食べてやる」だった。要は自棄食いである。実はここ2ヶ月くらい、お菓子を極力我慢して、職場では小腹がすいたらナッツ、家に帰ったらプルーンとキウイを食べるような生活を続けてきたので、すっかりお菓子を食べなくなっていた。お菓子を食べたいともあまり思わなくなったし、なんならお菓子を食べることにちょっとだけ罪悪感すら感じていたけれど、その時だけはそんなのどうでもいいい、何が何でも食ってやる、といった気分だった。

カリカリしながら仕事を終わらせて、百貨店に行った。スーパーやコンビニではなくて、百貨店で売っているそれなりに良いお菓子をたくさん買いたかった。それなりに値段のするお菓子をたくさん買うことで、高級(というほど手の届かない値段ではないけれど)なお菓子を、後先考えずに食べて、自分が浪費していることを実感すれば、少しだけすっきりするような気がした。心から食べたいというより、買い込みたいという衝動のほうが大きかったかもしれない。

そうして百貨店で、創業100年以上の某店のラスク数種類と、地元の銘菓、どら焼きなどを買って、少しだけ満足した気持ちで家に帰った。怒りの感情も、少しだけ落ち着いていた。帰宅後、晩御飯を食べ(お菓子をやけ食いするからと言って、晩御飯を食べないわけではない)、あたたかいお風呂に入ってコンディションを整え、温かい緑茶を入れ、暖房でほどよく暖まった部屋に入り、愛用しているミニテーブルの上に買ってきたお菓子を並べてみた。

何から手を付けようか悩みつつ、ひとまず単品で購入したどら焼きを食べた。甘すぎないおいしさで、緑茶によく合った。そして次に、ラスクに手を付けた。ラスクにかかったホワイトチョコが甘く、サクサクとした軽い食感が楽しくて、おいしかった。でもそこで手が止まり、もうこれ以上は、食べなくていいかもしれないと思った。罪悪感からではなく、ただ単にお腹も程よくいっぱいになっているし、食べないほうがいいのではと自分にセーブをかけた。なんだかすごく、残念だった。

お菓子をこんなにたくさん買ってきたのに勿体ないとか、私のお腹も加齢とともに弱っちくなったなぁとか、そういうことではなく、私は自棄を起こせない人間なんだなと思ったからだった。お菓子すら自棄食い出来ない。

自棄は起こさないほうが良いだろうと思う。でも、私は自棄を起こしたくなるくらい、周囲に対してムカつくことがたくさんある。いっそ会社で暴れてやろうか、無断欠勤してやろうか、辞表を出してやろうか。そんな風に思うことが、たくさん、たくさんある。

だけど実際は、そんなことはしない。というか出来ない。会社で暴れることはまずないし、無断欠勤出来るようなメンタルは持ち合わせていないから、頑張っても体調不良と嘘をつくことまでしか出来ないし、休むのが忍びなくなって午後出社にするし、辞表を出そうと頭を過っても、就業規則で何か月前に申し出ることが規定だったかを確認する。そういう人間なのである。

そんな自分の真っ当さが、残念だと思った。お菓子くらい、バクバク食べればいいのに。ちょっとくらい、逸れるようなことをしてみたらよいのに。もっともっと、気楽にいい加減に生きればよいのに。

買いだめしたお菓子は、今もまだ大量に残っていて、ちょっとずつ消化している。ホワイトチョコのラスクは、1日1枚ずつ食べている。自棄食いは出来ないけれど、1枚を噛みしめて、あぁ美味い…と思う毎日は、ちょっとだけ穏やかで、悪くはないのかもしれない。


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